entee memo
課題が見出される庭園 - Annex:祖型と反復、宗教と象徴、神話と図像
――「あらゆる手立てを尽くして正否を明らかにしなければならないほどに
例外的に重要な論件」としてのエゾテリスム釈義

2008-12-15

EconomicalはEcologicalだ(この際、断言)

畏友いしかわはじめ氏のblog「エコロジカル・エコノミカル。」に刺激を受けて、書く。Linklogのtrackback機能が死んでいるのでこのようにリンクを貼る。言うまでもないことだが、彼の文章は心から楽しませてもらったし、その主張を一旦受け入れての話であるし、ましてやタメグチを叩ける間柄だからできる「問題提起」ってものに過ぎねー。したがって「反論でさえねえんだ」ということで、その辺りは外野の方々にはじゅうじゅう承知して頂きたいんである。前置きは以上。

「EconomicalをEcologicalと混同するな」という議論は、サービスを受ける側の論理としてならその問題圏設定はじゅーぶんに理解できる。したがってエコロジカルを装ってサービスそのものを劣化させるのはゴマカシだというその主張も大筋は共感できる。

だが、その問題圏を一旦取り除いて、自分がより良いサービスを受ける権利があるとかの考えを一旦忘れて考えると、「economicalは大体の場合においてecologicalだ」というのは認めても良さそうな気もするのダ。

そもそも大量生産・大量消費は大体においてecologicalではない。人間の生産活動そのものが「ecologyに非ざるもの」である以上、生産行為にコミットしない生き方というのが一番ecologicalである。人間全員が一斉に集団自殺すればいちばん「地球にやさしい」。それが極端なら、人間ぐうたら必要のない時はゴロゴロ寝て過ごし、必要な時だけシブシブ生産活動に従事する、というようなナマケモノの生き方を全体でするのが、おそらく2番目くらいに環境負荷が低い。サービスだって無駄に笑顔を作ったり「いらっしゃいませありがとうございます」などと連呼しない方が個人の消費するエネルギーは少なくて済むかもしれない。少なくて済めば食べるメシの量も減らせる。これはエコロジカルだ。

その延長で考えると、これから来る可能性の高い「長期的で深い景気停滞期」というのは、長い眼で見ると、「ここ百年で一番二酸化炭素排出量が少なかった時期であった」などという観測結果を招来させる場合もあり得る(ホントか?)。もちろん、そんな「長期的で深い景気停滞期」が、戦争のような極端な大量消費(資源消費)に結びつく可能性もあり、その場合は全く逆の結果になる可能性もあるケド。

いずれにしても現在進行しつつある金融危機というのは、小手先の処置だけでは同じことを繰り返すばかりのハナシで、生き方そのものを切り替えて、「スローに生きる」みたいなことも、十分に視野に入れなければならない問題を自分たちに突きつけているのだとも思える。つまり「お金はない。ならばお金を使わない生き方を」みたいな話だ。あるいは、せめて他人のグウタラな生き方やサービスに対する寛容を涵養するとか(シャレです)。

むろん、大量生産・大量消費という世の中を成り立たせる経済基盤そのものを変えずに、単に手を抜けるところだけ手を抜いて行く、という様なやり方をして行くと、公害が大発生した60-70年代の日本や、人口が優に13億を越えると言われる隣国で今進行しつつあるような「危ない世の中」になる可能性もある。今の経済的な基盤の上で、ecologicalを追求することが、「手を抜く」どころか「手をかける」ことであるのは、確かにもっと共有されてしかるべき常識だとは思うが、バイトスタッフに分かってもらうには、さらに一手間掛けなきゃならないのは確かだろうねえ。
14:26:52 - entee - TrackBacks

2008-03-11

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17:45:59 - entee - TrackBacks

2007-10-12

そりゃあ問題ですよ、樹さん(続編)

昨日の日記で若干の“反響”があったので、
もう少し書いてみることにする。

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「温暖化が進行すればより深刻な事態があるだろう」
というものと、
「温暖化が進行しても大して深刻な事態はないだろう」
という、“計量的にどちらも蓋然性がない”らしい2つの言説が存在するとき、いざその結果が出た時に、どちらの言説の方がわれわれの生存にとって有益だったことになるだろうか。このことは、われわれの想像力の問題である。

「ひょっとしたら被害があるかもしれない」と悪い事態の予想をして行動する方が、多くの場合「安全のためになる」とするのが、安全保障確保の基本である。われわれが危険を感じる時に、例えば、狭い路地の200メートル先でこちらに向かってくるクルマの挙動に何かおかしなものを感じる時、それをわれわれは「計量的な蓋然性」として認識するのだろうか? ひょっとすると何の問題がなくても、「おかしい」と感じた自分の第六感に従って行動する方が、その人が生存できる可能性は高い。「クルマの挙動はおかしいかもしれないけど計量的に証明できないからいいや」と考えて敢えて無視する人が、そのクルマにはねられる方が蓋然性 probability は高いのである。

気候が温暖になることと気候が寒冷になることを、気温の次元だけで比べて済ませるなら、私の見解も内田氏の見解とそう変わらない。温暖化それ自体(温度)が直接人を殺すことはなく、どちらかと言えば、寒冷自体の方が人を殺すだろうという点で危ないということは賛同できる。だが、それは気候を温度というパラメータだけで判断するという近視眼的な判断だと言いたいのである。気温の上昇がより多くの氷を海の中に落とすという誰にも分かる現象自体だけをとっても、「その影響が巡り巡って、それでも何もない」と断定することの方が、“計量的な蓋然性”がないだろう。(それにしても“計量的な蓋然性”というのは不思議な言葉だ。)

あと重要なのは、われわれはもはや「温暖化があるかどうか」というレベルの話をしているのではなくて、少なくともほとんどの観測データが「温暖化は(おそらく)進行しつつある」という結論に達している点である。内田氏も文章のタイトルが「地球温暖化で何か問題でも?」と言っているところから見ると、「温暖化がある」点については疑問視していないように思える。おそらく彼が言いたいのは、人為(二酸化炭素増加)と温暖化の間にあるとされる相関関係が、広く世間で言われているほどにはまだ証明されていないだろうという様なことだろう。それは分かる。だが、それは温暖化そのものの進行の否定ではない。「温暖化はある。だがその理由は分からない。」ということに尽きる。でもこれだけで話を終わらせるのは、余り生産的ではない。主張されるべきは、その先にあるだろう。太陽系の話をするのは、ひとをケムに巻くには充分だろうが、それで停止するのは樹さんらしくないではないか。

樹氏が「温暖化そのものが眉唾物だ」と言っているのであれば、議論の次元を変えざるを得ないだろう。だが、おそらく環境変動の原因について所々対立している学閥が存在していても、温暖化そのものを否定しているサイドがそう多くないのはほぼ認定できる。それは少なくともこの20年の間に目に見える環境の変化を捉え損なわない限り、共有できることである。

(「温暖化があるかどうか」という“レベルの話”は、今年の3月時点で温暖化議論の相対化を目指した「地球温暖化を巡って考えられること」でも取り上げた。)

したがって、われわれに残されているのは、その原因が何であるのかという(内田氏が言うようにおそらく容易に突き止められないだろう)問題と、(奇跡的に)原因が突き止められたところで、われわれにその進行とそれによって引き起される事態を阻止できるのかという問題があることになる。そして、「来るべき事態」がある程度予測可能(計量的に蓋然性がある)になったときに、それへ対策を開始したとして、原因が証明されてから行なって間に合うのかという点である。

黄昏を待って飛び立つミネルバの梟は、われわれを救わないのではないか?そう思えて来るときに、私は悲観的にならざるを得ない。

00:25:18 - entee - TrackBacks

2007-10-10

そりゃあ問題ですよ、樹さん

いつもなら樹さんのブログにおけるコメントはなるほどと思うところが多いのだが、今回は素直に頷けない。申し訳ないが...
もちろん、アル・ゴア氏らが中心となってアジられている環境問題意識に便乗しようと言うのでもない。内田樹氏によれば、問題は温暖化ではなくて寒冷化だということで、温暖化における被害よりも寒冷化による被害の方が人類にとっては深刻さの度合いが大きいということである。
1年生のゼミで「地球温暖化」が取り上げられた。
地球温暖化を防ぐために、京都議定書の規定を守り、急ブレーキ、急発進を自制し、わりばしをやめてマイ箸を使いましょう・・・というような話を聴いているうちに既視感で目の前がくらくらしてきた。(中略) 地質学的なスケールで考えても、現在は「間氷期」である。地球は氷期と間氷期を交互に経験する。最後の氷期が終わったのが、約1万年前。黙っていても、いずれ次の氷期が訪れて、骨が凍えるほど地球は寒くなる。そのときには海岸線がはるか遠くに退き、陸の大部分は氷に覆われ、動植物種も激減するであろう。だから、私は温暖化には類的な立場からはそれほど怯えることもないのではないかと思っている。地球寒冷化よりずっとましだと思う。
(引用:「地球温暖化で何か問題でも?」@内田樹の研究室)

一面、それはそうなんだろうが、件の気温変動そのものがどうして起こるのか、そのメカニズムについては太陽を原因のひとつに挙げるだけで、人為の介在が温暖化、ひいては寒冷化を引き起す可能性についてまではあえて考えていないように見える。太陽そのものの生涯にまで言及し始めるが、それが何を導きたいのかはよく分からない(太陽そのものも不変ではなくて、いずれは滅びてしまうわけだから、そんなことを心配しても仕方がないというのだろうか? 地球環境の温暖化がそのようなレベルと同一に論じられるのだろうか?)。

このところ、自分にとって最もcredibleな環境変動論は、急速な温暖化(それが《何》を原因とするものであるにせよ)が、重篤な寒冷化の引き金になることを主張している。万が一にも温暖化の原因が人為によるものでなく、よりメガなスケール(たとえば太陽系規模)の要因があったとしても、人為が温暖化に拍車をかけることをして良いことにはなるまい。あるいは、少なくとも(何が原因であれ)温暖化が引き金になって起こるかもしれないことについて知っておいて心構えをつけておくことは無駄ではあるまい。

「The Coming Global Superstorm」の共著者の一人であるWhitley Strieber氏によれば、来るべき氷河期は急速な温暖化による極地方の氷山の大規模崩壊によって海に大量の氷が溶け出すことで海水が急速に冷却し、それによってドミノ式に「スーパーストーム」と呼ぶに相応しい文明のほとんどを死の縁に至らしめるような規模の激しい吹雪に地球の半球見舞われ、その際の雪や氷に覆われることによって、一気に地球は氷河期に突入するというシナリオを描いている。欧州の様な高緯度地域が現在のように、氷河に閉ざされていないのは、「メキシコ湾流」と呼ばれる暖流によるものだが、そのコースが変動することで欧州などはまた氷に閉ざされてしまうほどで、文明というものはそれほどに脆弱なのだ。映画『The Day After Tomorrow』は、その説に則って作られた超近未来SFだが、もっともあり得そうな暗黒の未来像だと思う。

だから、「怖いのは寒冷化で温暖化は問題にならない」とも読める内田樹氏の主張は、半分は正しく半分は正しくない可能性がある。まさにその「怖い寒冷化」が「大して怖くない温暖化」によってやってくる可能性について、われわれは意識を向けなければならないのだ。

(過去数万年における、氷河期と間氷期の交互の出現は、私の直感によれば、実はすべて地上に現れた「外ならぬ人類の登場」が引き金になって引き起されている、のである。これはまだ(おそらく)誰も言っていない新説である。)



ときに、環境論と科学者の関係についてフリーマン・ダイソン Freeman Dyson の述べていることは興味深い。ある種の科学理論が初歩的なところで間違っていても、それが導き出そうとするところが、大局的に「正し」ければ、その論全体を簡単には全否定できない(できるだろうがするべきでない)というようなことを、フリーマン・ダイソンは著書「Infinite in All Directions(邦訳『多様化世界』(みすず書房)」の中で書いているのだ。彼はカール・セーガンの有名な「核の冬」の理論が極めて基本的なところで間違っているし核爆発は地球に冬などもたらさないということが、科学者としてのダイソンの眼には自明だったが、「核の冬」の結論が導こうとしている警鐘、すなわち「核兵器開発の競争は人類のためにならない」という結論そのものには深く共鳴していたので、セーガンのセオリーを否定することが「正しい」ことなのか、科学者としてではなくて、人間としてどうすべきなのか倫理的な苦悩を覚えたと述べている。このことは科学者の言説として、核開発に関わった人間の言葉として改めて受け止め直せば、その言葉の重みが分かるだろう。つまり「科学的に正しいことが戦略的な正しさを導き出さない」ということなのだ。

これは多くの温暖化理論が初歩のところで間違っていたとしても(ということは、ひょっとして人為と温暖化は何の関係もないとしても)、温暖化が後に引き起すかもしれない人類に降り掛かる試練をあり得ない(あるいはわれわれの問題として扱うことが出来ない)と問題そのものを全否定する論理への加担の必要もないだろうということに逢着するのだ。

23:47:33 - entee - TrackBacks

2007-07-22

脳内摩擦

12:16:05 - entee - TrackBacks