entee memo
課題が見出される庭園 - Annex:祖型と反復、宗教と象徴、神話と図像
――「あらゆる手立てを尽くして正否を明らかにしなければならないほどに
例外的に重要な論件」としてのエゾテリスム釈義

2011-08-16

entee memo II の事故について

entee memo IIの題で運営していたblogが思いがけない重大な事故のため、すべてのデータが失われました。結果として、entee memo II ( entee.archivelago.com )にて2010年4月以降に書かれた新しい記事のデータが喪失しております。回復には時間が掛かり、また完全な回復は不可能と思われます。コメントを残して下さった方には本当に申し訳ございませんが、一刻も早い復旧に努力したいと思います。

entee
10:21:31 - entee - TrackBacks

2010-04-28

entee memo の引っ越し

突然ですが、entee memoのURLが変わります。

旧URL
http://blog.archivelago.com/

新URL
http://entee.archivelago.com/

これはサーバーのホスティングサービスを切り替えたために起こります。母屋の《課題が見出される庭園》は、ドメインそのままで新しいサーバーに移植できましたので、大きな問題はありませんでしたが、しばらく二つのblogを同時共存させるため、entee memoは新しいURLで始めることにします。これまでの主要なコンテンツは、ほぼ無傷で移植できていますが、見た目がずいぶん変わりましたので、その点、ご了解ください。

これまでと同様のご支援と購読を宜しくお願い致します。
12:59:00 - entee - TrackBacks

2010-04-06

岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』の再読

ウロボロス

岡田明憲氏の代表的大著(と思われる)、圧倒的に網羅的な『ユーラシアの神秘思想』を読み終えて、2週間。タイトルの同書再読。新書判でありながら(というよりはむしろ新書判のせいか)引用して論じたいことはもっとたくさんあるのだが、とりあえず、最重要と思われる箇所を備忘録として残してコメントをつける。
尾をかむ蛇は、グノーシス説のウロボロスである。ウロボロスは、世界の周期(アイオーン)を象徴するものとされ、その内部で善と悪の結合が生じると説かれる。オカルト派の解釈は、このウロボロスをゾロアスター教のズルワーンとして説明することである。この発想の起源は、アイオーンをズルワーンと同一視したミトラス教にある。ミトラス教の図像の中に、体に蛇を巻き付けた怪人像がある。これはズルワーン(時間)神であるとされ、しかもそこには、十二宮の象徴が見られる例が多い。岡田明憲著『ゾロアスターの神秘思想』(講談社)「占星術的マンダラ」より (page 191)

これは、形態的なオメガ祖型を言葉によって説明したものと看做すことができる。ウロボロスという円環する蛇の象徴は世界が繰り返す超歴史的周期であり、アイオーンと呼ばれるこの周期の連結部は、善と悪の結合するところに位置する。すなわち悪の究極の顕現によって実現される世界の終末が、新たな世界の始まりの契機となることそのものを指す。

蛇は、自らの尾を噛み付いていると同時に、自らの力自分の身体を吐き出しているようにも採れる。善なる世界は悪の頭から吐き出され、また善の頭が悪の尾を喰らい尽くし、それに取って代わるようにも見える。これは、上から見れば丸い形状を保持する円筒形の器、たとえば茶器として現れれば「暦茶碗」となり、その善と悪の結合部には、宝珠や三位一体をあらわす象徴的記号が、聖体として顕示される。この宝珠や三位一体は、善や悪を超えた、しかし戦慄すべき聖なる計画としての「出来事」である。生まれ変わりを待ち望む者たちにとっては、善の実現であり、現世の悦楽を楽しむ者たちにとっては、悪の権化の到来を意味する、一大エポックである。

つまり、時間の円周の半分は善なるものとして在るが、それがやがて死に向かうとき、残りの道程は腐敗の半周、つまり悪の半周となる。悪は善によって実現され、善は、悪によって実現されるのである。

こうした記述が、書籍の一番最後にくるというのは、錬金術関連書籍の伝統からすると、まったく反対である。錬金術書の伝統ではウロボロスは、巻頭の扉ページにくるものである。「まず円環ありき」なのである。ところが、岡田氏のこの本では、この超歴史的エッセンスとも言うべき図像、および、それに関する記述を本書の一番最後に持ってくるという選択を採ったのである。それはそれで、《反対物の一致》ではないが、ひとつの正しいメッセージを伝えるのには十分な効果があるのである。それはひとつの書籍の終わりであるし、それはまた新たな探求の始まりの転機になるからだ。

23:50:34 - entee - TrackBacks

2010-03-23

G・ファン・デル・レーウ『宗教現象学入門』を読む #3

浄めは、非常にしばしばある時期から次の時期への移行に当たり、境目をなす危機的な時点で、通過儀礼として行われる。その際、前の時期の「汚れ」(ここでも、われわれの公共的清掃事業の意味ではない)は、すべて祓われなければならない。ローマで、国家の力の中心であるヴェスタ神殿が年に一度浄められた時には、危険が空気中に漂っていると言われた。浄めをする日は、「俗的行為禁止の日」(dies nefasti)、つまり不幸の日とみなされた。汚れは慎重に隠されたのであるが、それは神殿の汚れのみならず、一年間の国家の汚れにも及んだ。(中略) 季節や年の交替は、大掛かりな浄めを伴う。見たところ──少なくとも多くの人々の目には──何か災いに満ちた聖、不幸という性格の一部が、浄めの概念の中に残存しているように思われる。
「神と人間──聖なる行為──」(の章)より、「A 外的な行為」の「26. 浄化、供犠、聖餐」より(page 199)

レーウの文章から、自分の「周回する浄化儀礼」や「オメガ祖型」の理論に支持を与えるような記述を見いだすことになるとは予期していなかったが、ついにそうした記述に遭遇することになった。

ひとつの時期から次の時期への移行期に「浄め」が行われるというのは、ここに書かれているように、世界中の広いエリアで観察されるのは確かな事実のようだ。オメガ祖型のいくつかの例を挙げるにあたって、筆者はかつて、日本の伝統的正月飾りの一つであるところの門松(かどまつ)や、とりわけ茶道の歳暮の時期に使われるらしい特別な茶器、「暦茶碗」などを取り上げて論じたことがあったが、まさに周回する時間の中でも、われわれに身近な「1年」という周期における一巡の時期、すなわち「年末年始」という次の周回へと移行していく「時の狭間」に《Ω》の形状を連想させるモノが出現し、そもそも大きな周回であるところの《Ω状》の未完の円相が閉じる(つまり、円の始まりと終わりがくっ付いて連結する)というコトの成就のために重要な役割を果たす、ということを論じたのであるが、レーウはこの過渡的な時間的狭間を「境目をなす危機的な時点」と喝破した。そしてそれは前時代に溜まった汚れという時間的な残滓をすべて祓い清めるための儀礼として捉える。

omega1

彼は、ここで「われわれの公共的清掃事業の意味ではない」とわざわざ括弧の中で断っているが、page 198でもレーウが記しているように「最初になされなければならない聖なる行為」としての浄化を、衛生上の観点から現代的な再評価が与えられているような「モーセやイスラム教の戒律」の解釈は、「すべて誤りである」と正しくも断定している。

浄めの祭祀が、「危機的」と記述されるようなエポックであるというその論拠は、今年に入ってから筆者がシリーズで取り上げた「反対物の一致」における論点といささかも矛盾しないどころか、それを裏付けるものとなる。つまり、危機的な過渡期を伴う周回は、単なる自然現象であるというよりは、きわめて人類的で人工的な何らかの動作を繰り返す行為であり、しかも危険を伴う儀礼なのであり、それがなければ古い世界は生まれ変わることができない、そうした分娩のような、ある種、「自発」的行為なのである。つまり、1年という地球の公転周期以上でも以下でもない自然現象的な周回は、その人類的・歴史的「行為」を思い出させる象徴的な範型なのであって、人間はその周回する時間を口実に、かつての人類が行ったところの「浄化儀礼」を模倣する契機としているというのが正しい。つまり、地球の公転周期や、それに付随する植物の一年周期的な生命現象から、人間が儀礼を学んだのではなく、人類の祖型的反復行為に、地球の公転周期が酷似していたと言うべきなのである。

omega2ウロボロス

今にも我が尾に食い付いて輪のように繋がろうとするΩ状の「未完の輪」を、閉じた「ウロボロス」のような完成した円環とするための契機が浄めの祭祀、すなわち「集団的浄化儀礼」なのであり、それの模倣しようとしているコト(事態)は、まさに人類の全滅を惹起しかねない危機的な「ゲーム」なのである。

この引用の後半部、「見たところ──少なくとも多くの人々の目には──何か災いに満ちた聖、不幸という性格の一部が、浄めの概念の中に残存しているように思われる」という部分は、とりわけ高い重要性を持っている。これこそが、円環の終わりに訪れる一種のお祭り騒ぎと、それが終わった後の嘘のような静寂という正月や過ぎ越の祭りに共通に見出される「意味性」なのであり、儀礼の背景において、今にも捉えられようと待機しているエッセンスなのである。聖なるものが不幸を暗示するというのは、まさに「反対物の一致」のひとつの側面であるし、「死を伴わない聖は存在しない」という筆者が、ここ最近提唱している「聖の本義」に関わる部分である。つまりレーウがここで暗示していることこそ、「大量死」という悲劇(災い)が、聖を成り立たしめるのであり、そしてその不幸(きわめて巨大な悲劇)の記憶が、「浄め」の意味合い(あるいは正当化)を必要とするということなのだ。


ところで、この(悲劇的とも呼ぶべき)歴史的エポックを「浄め」や「祓い」として諒解しようとする、言わば「宗教化された象徴理解」は、それが儀礼と化した時点ですでに堕落への一歩を進んでいる。レーウはその点についても抜かりなく指摘する。
目覚めつつある道徳的・合理的意識は、遅かれ早かれ、歴史を持ついかなる宗教の中でも儀礼による浄めに異議を唱えるに至るものである。(page 200)
つまりひとつにはキリスト教において行われる洗礼の儀式に「なぜ水が使われるのか」という抜本的な疑問は、依然として信者によってはなかなか呈示されにくいことではあるが、実はそうした疑問が大多数の信仰者たちによって抱かれる以前に、批判精神を持つ一部の宗教改革者たちによって、「もはや未開人のように思惟しなくなった人間は、両者[物質的な汚れも精神的な汚れも]を区別しはじめ、儀礼という手段を精神を損なうもの[形式主義/教条主義]であり、品位に欠けると感じるようになる」(page 200)のである。

[ ]内は筆者(当方)による。

しかし、一方でこうした形式主義としての儀礼や教条主義としての聖典(テキスト)を、宗教の慣習が保持していたことは、読み解き得る暗号を後世に伝えるという点では、少なくとも重要な役割を果たすのであり、宗教現象を道徳的価値だけで捉えようとする信心(信仰心)も、また別の教条主義へと宗教を矮小化する要因の一端を担っているのである。

そこで思い出すべきが、聖なるものは俗なるものによって実現する、あるいは、密教的な宗教の本義は、顕教という「反論しがたい大多数の支持を得る“善”」という容れ物によって世代を超えて運ばれる、というパラドキシカル(逆説的)な奥義について、なのである。

(続く)

参考文:
「忘れられた宗教の機能」についての長い補足
23:58:14 - entee - TrackBacks

2010-03-07

G・ファン・デル・レーウ『宗教現象学入門』を読む #2

Blake God

レーウの「神」に関する議論の続きを。

恣意によって苦しめられた者のみが、意志を発見する。太陽は、その気になれば、姿を隠し、光るのをやめることもできるのだと考えた古代のアニミズム的エジプト人は、太陽を永遠に昔ながらの正しい軌道から外れさせない、鉄のような運命の女神(デイケー)がいると信じたヘラクレイトスよりも、キリスト教の神概念に近い。盲目的な力や法則よりも、恣意的な神を信じる方がよい。最初によるべのない人間が、その生存の危機の中で、圧倒的な現実の背後に一個の人格的意思──それが呪うべき意思であるとしても──を想定するのでないならば、復讐の神も、正義をつかさどる神もまたわれらの主イエス・キリストの父なる神も考えられないのである。
 人格神から唯一神への進展は、かなり速やかに起こる。しかし、有神論(Theismus)はやはりいつの時代にも一神論(Monotheismus)よりは重要であった。唯一の神のみがあるという理論的確信を許容する宗教は一つとしてなく、あるのはただ人間が仕えることのできるのは一個の力のみであるとの強い信仰を許容する宗教だけなのである。もし他の神々は存在しないと言われるならば、それはこの、われわれの神の他にいかなる神も存在しないという意味でである。
G・ファン・デル・レーウ『宗教現象学入門』(田丸徳善/大竹みよ子 訳 東京大学出版)「神」(の章) 16 多神教 page 132

われわれの世界が、全く機械論的で揺るぐことのないメカニカルな法則によってのみ突き動かされているという、言わば「神不在」の世界観に対しては、実に古い時代から、その是非を巡ってさまざまな考えが提出されてきたということだ。喩えてみれば、玉突きやドミノ倒しのような「原因と結果」という因果の連鎖があるだけ、という機械のような世界よりも、世界の現象が、《その者》の気まぐれであったとしても、《なにがし》かの意思によって、どうにでもなるのだということの方を信じたくなるほど、人類は自然の「恣意」によって苦しめられてきたということになる(らしい)。しかも、その苦しみは単なる偶然によってもたらされる苦しみであると考えるにはあまりにも大きい。したがって、それが同じ苦しみであっても、単なる不幸な「事故」ではなく、何らかの至高な意志者による、われわれの理性では計り知れない計画と意図を持った者(至上者)による「恩寵」であると考える方が楽なのである。その点では、“暗い哲学者”ヘラクレイトスの方が現今の無神論に近く、キリスト教の方がアニミズム的古代エジプト人に近いというわけだ。つまり神々とともに生きていたギリシア人の方が、いつでも奇跡が起こる神のいる世界ではなく、神不在の、遥かに冷厳な宿命論を受容していたとも解釈可能なのだ。

いずれにせよ、神がいるかいないかという議論に対し、人類は「いる」という回答──つまり「有神論」──を選ぶのを好み、そうした「有意志的な世界」(有神論)に対し、汎神論に向かう別の軸を想定する。

一神教か多神教かという議論については、単純な二項対立ではなく、つねに「他の神」という、半ば「客観的」な存在者へのアンチテーゼでしかなく、自分らが想定する神以外の「神々」が存在するという他者への強烈な意識が、かえって「仕える対象としての神」が唯一でなければならないという希望的な観測を裏付けている、ということになる。つまり、そこには意識的な「信仰」という選択が求められる。

さて、汎神論について言えば、「神がその名前を失うこと」とレーウが説明するような面が確かにある。エジプトの原始汎神論者は古い神の名「アトゥム」を「万神」と解釈したという。ゼウスはギリシアでは特定の(つまり「至上の」)神の固有名詞ではなくなり、例えば、エウリピデスがそうしたようにゼウス・自然法則・世界理性の三者間に区別がなく、同じ概念を表す言葉として恣意的に活用したという。またゲーテは絶対的力への信仰をこのように表現したという。

「私がそれ(神的なもの)をトルコ人のように百の名前で呼ぶとしても、まだ不足であり、そのあまりに際限のない特性に比べれば、まだ何も言わなかったに等しいであろう」。(page 135)

この言葉で思い出すのは、福音書における次の記述だ。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるなば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」(ヨハネによる福音書 21. 24-25) ゲーテは神の名前について語っており、福音書家ヨハネは行為について語っているので関係ないとするならば、それは想像力の欠如である。行為の数だけ名前がある。そして名前の数だけ異なる行為があったのだ。この世界で起こったあらゆる奇跡的な出来事はすべて、イエスという「汎神」にその原因を求めることができる。イエスはヨハネ伝においては、神と人間をつなぐメッセンジャーであったというよりは、まさに絶対の至上者そのもの、すなわち汎神論的な意味での「神自身」、換言して、文明世界の隅々に浸透しわれわれの世界をかくあらしめる《絶対神》的な存在へと昇格しているのである。

それは神道を国家神道という形に変形し、天皇という至上者を想定し、それをあらゆる神(八百万の神々)のヒエラルヒーの頂点に座するものとしたのと比肩しうるかもしれない。つまり、この世で起こっているすべてが、この生ける神の意志次第になっている(いて欲しい)という概念は、ある意味、きわめて西洋的、いや、少なくともヨーロッパの宗教では馴染み深いものである、ということはできよう。

この回は、自分の至らない見解で締めくくるよりも、レーウの本書における最後の引用をそのまま引用して締めくくるのがいいだろう。そこにはイエスが自らを「アルファでありオメガである」と言ったその語り口(修辞法)の範型(元型)とも言うべきものが見いだされるのだ。そして、イエスが父と呼んだ存在、そしてその後の聖母信仰の範型とも言うべき、処女マリアの役割さえも、ひとつの神(ゼウス)が果たすのだ。これこそがヨーロッパのイメージした究極の汎神論的な神の姿なのであろう。

その(バガヴァッド・ギーターの)ほかに例えば、ギリシアのオルフェウス教でも、汎神論は全盛をきわめていた。「ゼウスは最初の者となり、ゼウスは最後の者となり......ゼウスは頭であり、ゼウスは胴体であり、ゼウスから万物が作り出される。ゼウスは大地と、星ちりばめられた天空のどだいである。ゼウスは男性として作られ、ゼウスはまた不死の乙女となった。ゼウスは万物の息であり、ゼウスは永遠の日野力であり、ゼウスは大地の根である。ゼウスは太陽であり月である。ゼウスは王であり......一切の存在の支配者である。


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