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Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [4]

【特記事項】
以下の記述は、救世主としてのイエスの史実性(実在)を前提としたものとして読めるかもしれないが、筆者の立ち場は必ずしもそれを認めるものとは言えない。だが、テーマが異なるのでここでは詳述しない。それについては例えば「「異端派」思想の「あれ」を「これ」から区別せよ〜聖書関連ニュースとその余波」などを参照のこと。

筆者にとって聖書(特に新約聖書)に対する最大の関心事は、常に、その記述が歴史的事実を反映したものであったかどうかということにではなく、それらの圧倒的なまでの《象徴的な価値》である。もちろん、その物語が現在に見られるような形として編まれた歴史的経緯に対しては、一定の関心があると言って良いだろう。

Yellow Star (6-pointed star)
図版引用先:Hidden Children and the Holocaust

■ 20世紀最大の犠牲者“J”

20世紀になって欧州を民族殲滅の狂乱の嵐が巻き起こった。第二次欧州戦争におけるナチスドイツによる組織的な「民族浄化」政策である。それによってまさに「燔祭(Holocaust)の羊」となったのは外ならぬユダヤ人 Jewish であった。ユダヤ人虐殺という一民族の完全な殲滅を目指す運動には、単に政治的な目的の完遂ということだけでは説明できない、ある種象徴的な意味合いがあることに気付いている者は意外に多い。むしろ、その象徴運動の完成のために一般民衆の感情や戦争を含む政治自体が利用されたとも言えるのである。だがオカルト的な地下水脈の存在を一般民衆が自らの問題として容易に理解できるわけではないために、運動の完成のためには「社会の寄生虫」といった単純で解り易いイメージを必要としたのである。そうしたイメージはプロパガンダの中に見出すことができる。

さて殺害されたユダヤ人の正確な人口については諸説あるが、第二次欧州戦争を通して、最大の被害者の一群となったことにおそらく疑いはない。そして殺害を免れた人々でも、なんらかの明白な迫害や差別の扱いを受けた事実に変わりはない。殺戮の具体的規模については、その真相が如何なるものであるにせよ、重要なのはその「事件」が世界に報道され、ユダヤ民族の確たる存在とその者たちの上に降り掛かった受難は語り継がれ、決定的に「歴史化」された(「取るに足らない歴史修正主義」との汚名を着せられた研究者による若干の反論は居るものの)

いずれにしても、第二次世界大戦の「意味」のひとつとして、ある特定民族の受難の再現もしくはその「国際社会」における認知と固定化があったことは、特記すべき筆頭に挙げられるであろう。

20世紀においては、ユダヤ人迫害に実際の手を下したのがナチス・ドイツの政権およびその政権を支持した人々であったのだが、ユダヤ人に付けられた最初のネガ・イメージの雛形は、今や世界教となったキリスト教の原典「新約聖書」の中に求められる。外ならぬ新約聖書の英雄イエス・キリストを磔刑の憂き目に遭わす間接的な加害者(殺害の動機を持つ者)として、そして新興教団(同胞団)の仮借なき批判の的であり、彼らの論敵として「ユダヤ人(律法家)」が登場し、保守勢力側の重要な役割を演じる――イエスという「善玉」に対する、言わば「悪玉」として。実際にイエスに死刑の審判を下すのも、刑を執行するのもローマ人であるが、イエスをユダヤの律法では極刑にできない反動のユダヤ人たちが、その極刑をローマの司法機関に求めたと解釈できる以上、イエスの死に関しては、ローマ人もユダヤ人もほぼ共犯関係にあると言うべきであろう。

したがって、「イエスの磔刑にユダヤ人は関係なく、実はローマ(イタリア)人に責任があった」という言い方は、ユダヤ人を弁護する人間の口から聞かれることがあるが、聖書の記述に歴史的根拠を求める限り、それはどう控え目に見ても公平とは言い難い。聖書の記述を歴史的事実として信じるならば、当時を生きたユダヤ人にイエスの死の責任があることも同時に受け入れざるを得ないだろう。イエスの物語自体を虚構とする捉え方以外に、そのことを否定することは出来ないのだ。

さて、「人の子」イエスが世界宗教の担い手になったのは結果として否定しようがないのであるが、そもそもの発端はイエスらを中心とするユダヤ教/ユダヤ文化/被抑圧ユダヤ人社会の改革運動であり、またユダヤの民の民族自決(ローマからの独立)を目指す政治運動の側面もあったはずで、あくまでもユダヤ出身の《ユダヤ人イエス》によるユダヤ人コミュニティ内の内輪もめの性格を持つ一例に過ぎなかった。また、イエスの敵としてユダヤ人がある、あるいはユダヤの敵としてイエスがある、という言い方がやや滑稽なのは、イエス自身が紛れもないユダヤ人に外ならなかった《隠されざる前提》が、当然のように度外視されているためでもある。このことを無視してはキリスト者とユダヤ人の歴史的反目という関係自体が成り立たないのである。

一方、当初十二使徒の一人であったユダ Judas が“裏切り者”であるとされた決定的なネガ・イメージは、現正統派の原典たる新約聖書において「四大福音書」として選択されているテキスト中に記述されている重要エピソード、すなわちユダが主イエスをローマの官憲に売り渡すという裏切り行為が根拠となっている。そして、それがユダヤ Judah, Judea人のキリストに対する「裏切り」のイメージを強化しているということは多くの人々によって指摘されているのであるが、それは正しくもあり、また正しくない。少なくとも、ここには意図されたのではないかと勘ぐりたくもなるある種の「混乱」があるのをわれわれは認めても良いだろう。

この混乱を単なる「混乱」として片付けられないのは、事実、語源的には元十二使徒のユダの“Judas”とユダヤ/ユダ国の“Judah/Judea”は同じであるためだ。このことは記号論的にはきわめて衝撃的かつ重要である。ところがこうした捉え方は、英語圏においても決して一般的であるとは言えない。これはおそらくイニシャルが同じ“J”であっても、英語表記にはそれぞれ異なる綴りが与えられているためであろう。だが、控え目に言っても語源が同じである事実においては、このふたつの名が象徴的には共通の何かを指し示すものであると言うことはできる。

ユダヤ人に対するネガ・イメージの根拠は、ユダの裏切りのエピソードにあるのではなく、ユダヤ人がキリスト殺害の動機を持っていたに違いないという新約聖書からも無理なく読み取れる理由のためだ。このことをわれわれは改めて認識すべきである。ばかげたことであるが、ユダがユダヤ人であったということを言い出せば、新約聖書の登場人物のほとんどが、ユダヤ人なのである。ユダヤ民族の伝統法が前提となっているからこそ、マグダラのマリアが安息日に客を取った(仕事をした)ことを責めるエピソードが成り立ちうるのである(マグダラのマリアもユダヤの律法を守るべきユダヤ人だったから)。イエス本人にしてもその例外ではなく、このドラマ自体がユダヤ民族おける内輪のできごとを扱ったものだから当然なのである。

「裏切り」を言うなら、最初に裏切ったのはイエスの側であるという視点も存在する。彼はユダヤの律法を相対化することで最初にユダヤの伝統法に対して背信した。そして新しく、よりユニバーサルな改正律法を打ち立てようとした。そしてそのためにこそ、後にキリスト教が世界的な普遍宗教として羽ばたくのである。そしてそれを阻止するためにはユダヤ人律法家たちはイエスの排除(殺害)さえもオプションとして視野に入れざるを得なかったはずである。

しかし、ここまで確認をした上で、われわれはJudasとJudah/Judeaが語源をひとつにするということの象徴的な意味についていよいよ迫ることができるのだ。

キリスト教は、その成立の起源から言っても、ユダヤ教 Judaism とは切っても切り離せないが、キリスト教を今日知られるような規模の普遍宗教として発展させるためには、最古の教典のひとつを独占するユダヤ民族の経典の大半を簒奪、もしくは「相続」することなしにはそれをなし得なかった。また、ユダヤ民族にしても、己がそのアイデンティティを堅固に保持したまま生き残るためには、世界宗教としてのキリスト教を引き立たせる「アンチテーゼ」として、キリスト教文明に付かず離れずの距離を保ちながら生き延びるしかなかった*。そして彼らはとりわけ白人社会において独特の畏怖と崇敬を同時に受け続ける不動の地位を確保した。当然、キリスト教社会が危機に陥った時、繰り返し現れる反ユダヤ主義 (anti-semitism) によって迫害の的になるというリスクと背中合わせではあるが、彼らの繁栄もキリスト教社会の成功に支えられて来た面がある――きわめて逆説的ではあるが。言い換えれば、キリスト教文明の危機が訪れれば、ユダヤ民族も危機に陥る可能性がある。

* もうひとつ忘れてはならないのは、ある民族を「保存」するためには、徹底してその民族を差別して叩くことである、という言い方ができる。何故なら、差別され弾圧される理由が、その民族のアイデンティティにあるということをその民族は強く意識せざるを得ず、周囲の「異民族」と同じ人間であるという意識を幾ら持っていても、その意識は現実の差別待遇によって常に打ち砕かれる。そこで起こることは、その民族的アイデンティティを捨て去ることではなく、むしろそれを誇りとして堅持する方向へと働く。そして降り掛かる受難さえも自分たちが選民であることの意識を強化する。つまり、ユダヤ人であるという意識は、ユダヤ人本人たちによってよりは、むしろその周囲の人間の差別意識によって創作され強固にされたと言うべきである。

ある民族を本当に地上から消滅させる最も手っ取り早い方法は、その民族を異民族として考えず、徹底して自分の民族と同じ待遇をすることである。差別の完全な滅却により被差別民そのものの存在理由(レゾンデートル)も自己同一性(アイデンティティ)も曖昧になりやがて無くなるのである。事実、そのような在り方によって幾つもの民族は他民族社会へと同化し消滅しているのである。失われた民族たる彼らは卑怯なのではなく、名前やアイデンティティよりも、生存すること (Quality of Life) を選んだのである。


キリスト教はその教義の普遍性を強調するために旧弊な伝統を保持するユダヤ人やその律法主義を引き合いにする以外になかった。事実、新約聖書自体が他者を否定することによって存在理由を勝ち得ている面があり、またそのように編まれていることは否定のしようがない。つまりキリスト教は本性的に敵を必要とした。それは、自らを死によって犠牲化し(殉教し)、聖別し、絶対化するために、裏切り者(ユダ: Judas)を必要としたことがひとつである。英雄は自殺によっては聖化されない。他者による殺害によってしか聖別されないのである。また彼らの、宗教としての成功と繁栄は、被抑圧者としての「ユダ」、そして何よりも「ユダヤ」 (Judah/Jew/Jewish/Jude) を必要としたのだ。

一方、神への供物として選ばれたユダヤ人は、現代人の記憶に残る史上最大級の《燔祭: Holocaust》を自己犠牲を中心に劇的に演出することを通じて、誰によっても絶対に取り上げられることのない免罪符を得た。すなわち予言され続けた「イスラエル建国」の口実を得たのだった。そして「地上のエルサレム」は、キリスト教を言わば「国教」とする「帝国」内のシオニストによって大いに守護され、打ち立てられたのであった。

ある種の供儀物/犠牲を必要とする点において、キリスト教にとってユダ(Judas)とユダヤ(Judah/Jew)には共通する何かがある。そしてそれは頭文字“J”を持つ類似名を保持しているのである。


■ 神の名としての“J”:Jah/Yah

以上の様になり得た理由のひとつには、単にヘブライ語の男性名がIa, Io, Ie[英字による便宜表記]などの音から始まるものが多いためという説明が当然成り立つのであるが、それでは何故そのような音から始まることになっているのか。それについてはあまり広くは説明されていない。だがこの事実はこれら男子名の接頭語が「神」を意味するYahweh(英語化されたYHWH/YHVH, ドイツ語化されたJHWH)の名前の一部“Yah”を共有するため、という事情まで溯ることができるのである*。その点に言及することによってこそ、初めて聖書の登場人物の名前に強迫的に繰り返されるかつての(ヘブライ語の)“Y/I”、転じて、のちの“J”のイニシャルの多くが説明できるのである。

その音は、例えば卑近なところでは神を称える常套句であるHallelujah**(「ハレルヤー」)の最後の「ヤー」の音にも見出されるもので、「讃えよ、神を」の「神」に相当する。名前の一部が「神: J/Y」であるという例は、すでに見てきたようにこれほど多く見出されるのであるが、たとえば旧約の「エレミア書」のエレミア/イェレミア(Jeremiah, Jeremy)もその一例である。ヘブライ語のYirmeyahuに語源があり、その意味は「May Jehovah exalt」(神が称賛せんことを!)である。新約に登場する幾人もヨハネたちは、ギリシア語の「Iohannes」が転じてJohannes, Johanne, Johnなどになっているが、語源的にはミシュナー・ヘブライ語の「ヨハナーン: Yohanan」から来ているもので、その意味は「神は慈悲深い」である。ユダは、ヘブライ語が「Judas」ならびに「Judah」に転じたものだが、そのヘブライ語の意味は「The praised one / The one praised (by God) 」「(神によって)讃えられし者」である(これはこの名の付いた者の辿った運命を考えると実に興味深い)。ヨセフ/ヨゼフは、ヘブライ語の「Yosef」、アラム語の「Yosep」から転じたものであり、その意味は「The Lord will increase/add」(神は殖し給う)である。***

つまり、多くの欧州言語において強迫的に繰り返される男子名のイニシャル“J”には、否定しようのない聖なる意味、神との関連があったのである。


* http://en.wikipedia.org/wiki/Yahweh#J.2FY
http://www.pickbabynames.com/_alphabeth/J.html

** “Halleluyah”や“Alleluia”などのスペル違いがある。“jah”, “yah”, “ia(h)”などのバリエーションがあるのものの、「ハレルヤー」に限って言えば、英語圏でもスペルが「jah」でありながら「yah」音で発音される。これはJ音を“juice”の音で発音する英語圏でありながら例外的と言うべきである。

*** このあたりのアルファベット表記には理想的には長母音を表す特殊記号などが用いられるべきなのであるが、ネットにおけるコーディング技術上の理由でそれらは通常アルファベットに変換してある。







posted at 16:34:00 on 2007-03-01 by entee - Category: Jの陰謀 TrackBacks

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