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課題が見出される庭園 - Annex:祖型と反復、宗教と象徴、神話と図像
――「あらゆる手立てを尽くして正否を明らかにしなければならないほどに
例外的に重要な論件」としてのエゾテリスム釈義

2008-03-30

希望骨・灰 “異論”──あるいは、『Front Page News』礼賛

Sleeve design

最初に、間違って造り上げられたこのグループについての「伝説」を徹底的に否定しておくべく、私家版のウィッシュボーン・アッシュ論を通して、バンドの位置づけをしておきたい。

Wishbone Ashは、ライヴ盤の2枚組(“Live Dates”)を2枚分として勘定すると、1970年から1980年までの10年の間に、MCAから計13枚(12組)のレコードを発表した。この「黄金の」MCA時代を通しては、若干のメンバーの入れ替わりなどあった(誰が出て誰が入ってきたなどの人事異動は勝手にライナーを読んで勉強してくれ)ものの、核となるギタリスト(Andy Powel)とボーカリスト(Martin Turner)を中心に、ほとんど「首尾一貫した」と形容したくなる様な、独特の粘りと抑制された歌心を押し出した作風で、アルバムをコンスタントにリリースしたことになる。(その決して激することのない音楽的な粘着性は、その不可思議なバンド名、「ウィッシュボウン・アッシュ」という音にも十二分に反映されている。)

さて、私に言わせると、ごく僅かな例外を除いては、彼らの作り出したアルバムの《すべて》が、甲乙付け難い完成度ででき上がっていると表したくなるものである。したがって、彼ら大西洋を挟んで英国と米国の間を行きつ戻りつしたことによる作風の変化なるものを云々する評論家諸氏の言説は「すべてナンセンス」と言下に否定しておくので、一旦、完全に忘れて頂いてよろしい。
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2007-06-20

あるのはブラックサバスである

Sabbath
あるのはヘヴィーメタルでもハードロックでもプログレでもない。あるのはメタリカであり、ブラックサバスであり、フランク・ザッパである。あるのはハードバップやフリージャズやフュージョンではない。あるのはアート・ブレイキーであり、コルトレーンであり、ジョン・マクラフリンである。ジャンルはすべて幻想である。あるいは評論家諸氏の頭で複雑な音楽の宇宙を「理解」し、ちんまりとそのなかに収めるための利便である。

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2006-07-25

音楽は《内容》を持つか?

以下は、一度取り上げたことのあるE・フィッシャーの評論(『芸術はなぜ必要か』河野徹 訳)の中で引用されていたヘーゲルの論述を孫引きする形で、ネット上で行なった「とある対話」の中で記した拙論を基に、大幅に推敲したものである。拙論「音楽と音楽に外在するもの〜E・フィッシャーを読む」の最後に紹介しているが、再度引用する。

「外面的な対象を一切持たないという意味における内容と表現形式のこの観念性が、音楽の純粋に形式的な面を明示している。音楽は明らかに内容を持つが、それは、われわれが造形美術や詩をさしていうときの内容ではない。それに欠けているのは、現実の外面的な現象をさすにせよ、知的な観念や心象の客観性をさすにせよ、とにかく客観的他在のこの外形なのである。」(ヘーゲル『芸術の哲学』 太字は引用者による)


まずこの文章の前半部分に関してだが、われわれは「外面的な対象を(ほぼ)持たないという点において、たいがいの音楽が純粋に形式的(かたちそのもの)でしかない」ということを意図しているのなら、ヘーゲルの指摘についておおむね同意できる。そう。「音楽は音でしかない」(安藤広)のである。(そして作品が視覚表現だとしても、それが抽象表現ならば、この指摘は相当程度に適用可能となるだろう。)

ことによると単に翻訳の拙さのせいかもしれないが、このヘーゲルの文章がいきおい不鮮明に聞こえるのは、ひとつには指示代名詞の使い方がある。特に分かりにくいと感じるのは、「それは、われわれが...」と「それに欠けているのは、...」の部分である。第一の「それ」とは何を指すのかが分かりにくい。第二に「それ(に欠けているのは)」が、ほぼ確実に「音楽」のことを指していることは想像できるが、最初の「それ」は、おそらく「(音楽の)内容」を指しているのだろうと憶測できるものの、確信は持てない。 「外面的な対象を一切持たない、という意味における内容と表現形式のこの観念性」という長い節を指している可能性もある。

「外面的な対象を一切持たないという意味における内容と表現形式のこの観念性が、音楽の純粋に形式的な面を明示している。音楽は明らかに内容を持つが、その音楽の《内容》は、われわれが造形美術や詩をさしていうときのものではない。《音楽》に欠けているのは、現実の外面的な現象をさすにせよ、知的な観念や心象の客観性をさすにせよ、とにかく客観的他在のこの外形なのである。」[赤字は筆者によって解釈された補足]

とりあえず指示代名詞を以上のように了解した前提で書けば、賛同するまでもないほど、ほとんど「身も蓋もなく自明」なことだと言う以外にない。だが、近年自分が獲得しつつあるもうひとつの視点から言うと、この「自明なこと」すら無条件に「正」であるとは言い切れない局面がある。

純粋な音楽――伝統的音楽用語に従えば、「標題音楽: program music」に対する「絶対音楽: absolute music」のようなものを指す?――が「外面的な対象を持たない」というのは、基本的にはそうだ(というより、少なくともそのようなものを純粋音楽と呼ぶだろう)。だが、《音楽》が、深層の部分では相当に具体的な「外在する何か」を指し示している(反映している/呼応している)可能性があるという考えに傾いてきている。これは深層レベルの話なので、音楽を創っている本人さえ無自覚である可能性がある。

音楽を音楽であると捉えるのは、受け取られる音楽の性質だけに帰される現象ではなくて、音楽の体験が内的体験である以上、受け取る側の内的神秘がそうさせるという見方が可能な訳で、音楽における「ある不変の実体」だけを問題にすれば済むということにはならないのである。

ヘーゲルは、この文章において暗示しているように条件的には「《内容》を持つ」と言っている訳で、そのように「内容がある」とわれわれがに認識な可能な以上、音楽の作品の(内側)だけでなく、その音楽の有り様と「相似の関係」にある何らかのものが、作品の外側に存在しているのを感知し連想するからこそ初めて「内容がある」とわれわれが感じているという捉え方が可能だ。

音楽によってもたらされる官能的な心地よさや不快というものは、確かに外在する何かとは無関係に、「音楽」それ自体が、感覚器官を通してもたらす「ひとつの純粋な経験」であるということが出来そうだし、その側面を無視している訳ではない。だが、われわれがある音楽から純官能的な快感とは別の次元の感動を得ているとき、それは単に甘い飴を舐めているような甘美な経験とは別種の、高次の《内容》に共鳴していることを意味していることが想像できる。

外在する一切と全く無関係に「ただ存在する」ものが、われわれにとって「表現」である捉えられるということ自体が、われわれには「想定する」ことができないのではないだろうか。もし、そういうものがあるとすれば、それは人間が積極的に関与する「表現」ではなく、単なる「現象(出来事)」と呼ぶべきである。ただし、「現象」からある種の人間が「世界からの兆し」(外的世界からわれわれの世界へと照射されているかに見える徴)を捉えることができる人間のシャーマン的な能力の存在を想定すれば、世の中には「神の表現」としての「地上的現象」があると言うこともできるかもしれない。ただし、それは人間と音楽との関連という文脈から逸れていくので、ここで深入りしない。

さて、このヘーゲルの「拙い翻訳」自体は横に置いといて、

純粋な音楽が「外面的な対象を持たない」というのは、基本的にはそうだが、深層の部分では相当に具体的な「外在する何か」を、指し示している(反映している)、という考えに自分は傾いて来ている...

実は、この辺りが現在自分が大きな時間を割いて考察している部分なのだ。「いかにも自明」なことでありそうでいて、今日の表現者や鑑賞者が容易に認めたがらない部分である。 私はまさに人間精神の「底なしの穴」について、そして抽象表現が総じて、人類の《世界的な体験》に似た何か(エピック)を指しているという可能性に関心が向いているのである。 ある驚愕的体験が、「現象世界の世界的現象」を無意識に「認識」しているということに...

つまり、知的なレベルでの(頭で了解できる)作者自身の《題材》への理解や自覚の有無と関わりなく、ある種の抽象表現が何か重大な内容を伝えてしまうという“作品の力”をめぐっての話となる。

これは、フロイトやユングの発見や心理学、そして比較宗教学のエリアーデの研究などなどに親しんでいる方々からすれば、「もはや議論の余地のないこと」ではあろう。ただ、その割には、世間では抽象表現を積極的に解釈するよりは、その抽象を抽象のまま「放っておく」(要するに、「純粋に味わう」)ことで鑑賞態度として足りると言わんばかりの言説が、(一部の創作家や芸術愛好家たちの間でさえ)目立っているように感じられて仕方がない。つまり、創作物を真ん中に置いて両サイド(つまり表現者と表現を捉える側の両方)から、抽象芸術には「意味はない」とか「意味を解釈する必要はない」とか宣い、積極的に作品を「理解」する事を忌避する態度が出てきているような気がするのだ。解り易く言えば「理解」よりも「感じる」ことが重要視されていると言い換えられるだろう。もちろん、「感じる」のが先にあって「理解」もある訳だろ!と当たり前の事を言いたくもなるのである。

一方、創作現場からの言葉として、「われわれの小さな頭で考えたこと、理解した事を姑息に作品に入れ込むことでは、大した芸術作品は創れないのだ」という訳の分かったような断定を聞く事もある。人間精神の奥の深さや無意識のフェイズにおいて創作された“作品の力”を思い返すに付け、そうした発言も十分に理解できるのだが、真に重要な「意味」というのは、抽象作品を通して伝わるという以外に、ある種の言語や記号を以てすれば「言語化」さえ可能だ。実際、「詩」というものがこれまで愛されてきた歴史や現実(詩は、文字という記号を使って表現される)を観れば、おそらく多くの人々にとっても、疑問の入る隙のないほど自明な事だ。

問題は、あくまでも、所謂「無意識」や「幻視」が告げるところの《題材》の重要さであって、その重要さを一度「意識的」に受け止めれば、それはふたたび知的レベルでの言語的行為に還元する事ができる(もちろん簡単な事ではないが)。つまり、ある種の題材について「○○の表現形式によってしか伝達できない」とかいう言い方は、われわれにとっては明らかな虚偽だ。音楽や映像作品などの形式の違いを考えれば、体験の質、すなわち「伝わり方」に違いはあっても、音楽であろうと、映像作品であろうと、詩であろうと、「伝わるもの」に違いはないのだ。これは、その《題材》を了解した人にとってはあまりにも自明な事である。

われわれが言語に対する偏向的こだわりを持った「頭でっかち」な人間である...にも関わらず、その対極とも考えられるような即興音楽という創作方法にも同時に強いこだわりを抱きつつ取り組んでいるのは、無意識的な境地が意識的な音の操作よりも、より多くの「劇」(あるいは劇的効果)を生み出し、伝える(しかも深層で)ことがある、という実感を抱いているからだ。(もちろん、まだまだ「駆け出し者」の自分は、演奏中に「常に無為である」ことからはほど遠いのは認めても良い。) ただし、それを可能にする境地や技術力ということとも切り離して考えられないことではあるため、そうした《内容》を包含しうる表現形態において、「只の無為」であるということが、必要条件であっても十分条件ではないことについても自覚的でなければならない。

(推敲中)
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2006-07-06

作曲作品は誰のもの?
武満作品は誰のもの?

先日、下に引用したような文章に先頃遭遇した。
残念ながら、原文自体のURLは失われてしまった。そのコピーをベースにして起こしたと思われる似たようなコピーを記載する別ページは、ネットの各所に存在する。たとえば、これもその一例である。幸いにして、原文はコピーしてあったので以下にそれを掲載する。

武満徹・響きの海─室内楽全集(全5巻)
2006年1月19日 (木)
武満徹(たけみつ・とおる 1930.10.8-1996.2.20)は、現代音楽の分野で国際的に評価されている日本を代表する作曲家です。没後、以前にも増して世界中で作品が演奏されるようになりましたが、反面、作曲者が望んでいなかった解釈もしばしば見受けられるようになりました。
 そこで生前に作曲者と深い親交のあった音楽家たちが集い、「作曲者が本来望んでいた意向を汲んだスタンダードたりうる演奏を残す」という意志のもと、特別に結成されたのが「アンサンブル・タケミツ」です。2001年から2004年にかけて全6回の公演で、65曲の室内楽作品が演奏されました。
(中略)
 日本を代表し、国際的にも活躍する当代一流の演奏家たちが、作曲者の生前に直接アドヴァイスや対話を通して得た、音の身振り、表情、速度など、真にオーセンティックな解釈によって一曲ごとに精魂を傾けて奏でた、まさしく唯一無二の演奏です。
(略)


これは、「音楽が作曲家の頭の中や譜面の段階で、すでに音楽が完成している」かの幻想にのっとった言葉の典型的事例である。このような言葉の数々を見て「聴いてみたい」と思うのは通俗的な音楽愛好家的素人である。ここでの言葉を怪しいものと感じた人はマトモだ。だが、音楽作品が、譜面それ自体ですでに作曲家の頭にあるものをすべて具現化していると思っていたり、作曲者の頭自体が現実世界において鳴り響く《音楽》のすべてを予想できていると考えるなら、それが勘違いであることに気付くべきであろう。

今回のCD制作者の意気込みは買おう。武満徹が作曲家として第一級であることも敢えてここで問題にするべくもない。だが、この推薦文を読む限りでは、ひとつの原則が完全に無視されていると言わざるを得ない。そしてそれは心ある現場の音楽家や演奏家の反感や失笑を買っても可笑しくないような言説を含んでいる。

音楽というものは、それを演奏する具体的人間が演奏して完成するものである。演奏する以前にすでに「オーセンティックな解釈」というものが存在すると考えること、そしてそれを目指すことが演奏者の努力であると思い込むこと自体が、最初の誤謬である。それは陥りがちなことであろうとは思うが。そもそも「音楽的完成」が、演奏者なしに作曲作品として自立的に存在していると考えることが幻想である。それはほとんど身体なしに抽象的思惟が存在しうると考える程に非現実的なことである。

演奏家は、作曲家が思いもよらないような解釈や演奏方法やその他の諸々の表現で、その意図以上のものを目指すのが役割なのであり、また、作曲者本人が気付かないようなことが、その作品の行間にさえ潜んでいるわけで、演奏者が、作曲家の「思った通りのもの」を再現する(できる)のが彼らの仕事で、それ以上でも以下でもないと思っているとしたら、それは死んだ観念的「音楽」のリピート再生に過ぎない。

武満徹も確かに誰かに訊ねられれば「このような音」とか「このような流れ」とか「あのような響き」とか、自分の作品のイメージについて語れたに違いないし、事実、語ったであろう。だが、それが可能な音楽的実体の唯一のものであると作曲家の彼が本当に考えていたかどうかは、別問題である。彼の中に確固たる音響や調和のイメージを持っていたことは疑いがないが、私は彼が彼の頭に存在する音楽のアイデアが、唯一価値を持つものだとそのように思っていたと信じることは難しい。

生前の武満をよく知っていて、またどんな音に彼が満足していたかを知る演奏家たちは、確かに演奏上、相対的にやや有利な地点にいることはあるかもしれない。だが、それも、武満が彼自身の音楽から期待している自覚できて「言語化」できる部分であり、また、こう言って良ければ音楽的理想や「好み」に外ならず、それが彼の書いた作品であっても、その結果を武満だけが独占的に制御したり承認したりできるものではなかったはずだ。ましてや、武満の音楽観を知っている(と思っている)演奏家たちだけが、作品の正統な解釈の継承者だと名乗ることもできないだろう。いや、名乗るのは勝手だが、それを周囲が真に受けなければならない道理はない。作品の解釈や実際の演奏結果というものは、作者の意図や狙いというものを容易に超えて行くものだし、乗り越えられるべきものだ。場合によっては、絶対に近づくことのできないものだ。それが実際に譜面を音に変換する人間の奮闘する理由であり、存在価値だ。

武満の作品の中で、強いて、武満の狙いや「真意」を反映したものがこの世にあるとすれば、それは、武満自身が音を出し、(録音作品なら)整音し、彼が納得ずくで完成させたいくつかの音源であると言うべきかもしれない。それらは、例えば、彼自身が音楽監督をしたり、自らマイクとテープを使って作り上げた、いくつかの映画音楽(サウンドトラック)などがそうかもしれない。

実際に音を出さない作曲家が、実際に音を出す演奏家よりも、尊重されなければならないということは、「現代の音楽」という状況において、すでに不文律としてはあるかもしれない。だが、それを無批判にそのようなものでそれ以外はあり得ないと受け容れて考えるのは、ひとつの観念(思い込み)に外ならず、決して絶対的なものではない。それは作曲家が実際に音の現場において、もの申し、制御し、納得できるまでOKを出さないという、生きていればこそ可能な、音楽制作における具体的な手法のひとつに外ならないのである。

武満徹が亡くなる前に、「これが武満の音である」とか「この人が武満の音の継承者である」というような、自らが「芸術様式の始祖」たることを宣言し、それを正統に継承した人間以外の演奏を邪道(ないし逸脱)としたのならば、それは閉じられた家元制度のようなシステムを彼が希求したことになる。だが、少なくとも、私が想像できる限りにおいて、それは彼の生前の発言やさまざまなオーケストラのために数多くの作品を書いたという事実から導きだせるような人物像ではない。彼がそのような硬直した状況下でしか自分の音楽が実現できないといった狭量な音楽観を以て創作活動していたとは考えにくいのである。理想は高かっただろう。だが、彼は彼の譜面を使って演奏され、実際に鳴り響く音楽を自分の意図と違うということもって全否定しただろうか? もし、それを裏付けるようなことを本人がどこかで言ったり書いたりしているのであれば、それを是非見せて頂きたいものである。

繰り返す。音楽は、特に作曲作品を取り扱う場面において、如何に作曲家が尊重されなければならないという至上命令があったとしても、出来上がったものとその当初の意図とは、違ったものであるはずだ。それが生きた《音楽》の真実である。そして、作曲家が演奏された自作品を喜び、演奏者を讃えるとき、それは自分の予想を遥かに超えた結果に対する驚きと、自らの意図と現実の間隙にある《音楽》自体の神秘に触れたときであるに相違ない、と。

Note: 念のために断っておくが、以上のような「意図」を持って集まり演奏したからと言って、その実際の演奏が詰まらないものであるとか、価値のないものであるというつもりはない。何度も言うように、何を演奏を通して目指したかということと、実際の演奏結果というものの間にも、乖離があって当然なのである。つまり、どんなに詰まらない意図で集まったとしても演奏が途方もなくすばらしいという可能性だってあるのである(実際そうかもしれない)。音楽家(作曲家)の意図と音楽は、「個別に語られる必要」があるのである。



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2005-08-20

音楽と絵画に見出される根本的な相違:
同列に論じられない部分についての考察

即興を抽象表現としての絵画/視覚表現の生産の方法として取り入れる場合と、即興を音楽の生産の方法として取り入れる場合とでは、どうしてもうまく比較することができない部分がある。

これは、とりわけ「うまく譬えられた比喩(比較)」に潜んでいるかもしれない誤謬の可能性に対する警戒という、私が意識的に自分に課してきたテーマを再確認する意味もある。つまり、うまく言い表された比喩は、人を説得させ、感動させ、行動に駆り立てる力さえ持っている一方で、犠牲にされる側面というのがどうしてもあるからだ。つまりその両者を「芸術とか創造行為とか表現とかいう点で同じだ」という理由で大風呂敷に包みこむタイプの総括の中で、切り捨てられてしまう具体的な事象というのがあまりにも多くあるからで、しかもその具体的事象の中にこそ、それぞれの分野で追究されてきた成果があり、また独自の苦闘やら喜びというものもあるからである。だから、両者は「違うものだ」という前提で話を始め、その上でそれでも「やはり似た部分がある」という控えめな結論に至る方が、それぞれの当事者にとってフェアな態度だと思うのである。

絵画/視覚表現を得る場合の「即興」は、その結果がひとつのキャンヴァスなり諸々のメディア上にその軌跡を残し、まさにその軌跡が、静止した「抽象表現」としての体を成す。そして、その時間経過がメディア上に「凍結*」される。一方、音楽創作の場合、その音を聴いて音楽的なものとして了解できるものとするためには、イディオムを身につけなければならず(これは絵画と共通?)、その身に付けたイディオムを出現させ展開させるためだけに、リアルタイム(適当なタイミング)で止むことのない身体的なオペレーションを「その場」で維持しなければならない。[記録媒体を前提とした録音作品に関しては、必ずしもそれが当てはまる訳ではなく、視覚作品を作るのにより一層似た作業となる。つまりテープやハードディスクといった記録媒体をキャンヴァスとして音を塗り重ねていくという行為になる。]

* もちろん、その作品の中に凍結された「時間」を「解凍」して、解かれた時間を「体験する」というのが心眼をもった本物の鑑賞者のできる鑑賞方法ではあろうが。

ここで自分は絵画と音楽のどちらが難しいとかいうような話をしているのではない。また、どちらが高次元の表現だというような霊的不可知領域についての話をしているのでもない。ただ、単純で情緒的な二者の比較や比喩の無効性と、比較自体の困難さを言語化しようとしているだけである(むしろそのような言語化の過程こそ「比較可能な部分」をあぶり出すことにつながる作業とも言えるのだ)。

まず、音楽においては、それ自体が本質的に「抽象的」なもので、且つ時間芸術であり、したがって、それが作り出される現場でしか本来的に共有できないものであり、また、その「制限時間」内で把握する(しようとする)鑑賞者(立会人)の存在が最低限の条件である。そして、「抽象表現」自体が目指されるべき第一の目標ではない、ということがある。抽象性はすでに達成されているのであるから。

また、描写されるべき外在する対象を写真のように写実するというような役割を音楽は最初から担ってこなかった(一部例外はあるが)。音楽に於ける抽象性とは、提示される音素材のひとつひとつのパーツに生得的に備わっている本質であって、それらはどこまで行っても具体的な外在物を置き換えることにならない。そうした素材を組み合わせてはじめて「音楽体験」と言い得るもの──鑑賞者の体験は具象的かもしれない──が生み出される。そして、仮に音楽が何かを「表現」するのであるとしたら、それは世界に存在する「音楽同様に抽象的」にしか言い表せない「何か」(それは、筆者によれば<普遍的題材>)であって、その描写対象(題材)そのものが、「時間」に深く関わるものであれば、音楽が極めてその役割を担うのに「うってつけ」でもあった訳である。例えばつまり、「人の生涯」という時間経過の関与した物語を描くのに「演劇」がその表現手法として極めて好都合であるのと同じ意味で。

だがご多分に漏れず、元来本質的に抽象的であるはずの音楽の中でも、19世紀末から20世紀初頭に掛けて、とりわけそれが「抽象的」に聞こえるため、の努力が払われた。興味深いのは、音楽の「イディオムの解体」や音楽上の「因習破り」や「予想不可能性への到達」を目指した結果生み出された──すでにその成果や意味が明白になっている──諸作品の類は、西洋音楽に於いては、即興を通してではなくて、むしろ譜面に向かう厳密な「音符の操作」(作曲)によって試みられたということである(新ウィーン楽派など)。しかも因習的イディオムを深く理解した上で。そしてこうしたイディオム回避のための試行錯誤は、音楽について言えば、ヨーロッパという辺境の地域で発生した「伝統」音楽のフィールドだけの独壇場であった。つまり、世界中の、およそ音楽と呼ばれるあらゆる諸範疇の中でも「西洋の発展系音楽」のみが至ったひとつの手法(袋小路)であった。日本の伝統音楽も、インドの伝統音楽も、それが西洋近代の音楽と出逢うまでは、そうした「解体」や「予想不可能性」に魅せられた形跡がない。音楽は、破壊を志向して新たな刺激を求める一部の需要に応えるためのそうしたギミック以上の、何か神聖なもののための供物だったのだ。

音楽においては、すべてが根本的に<抽象>であるという前提を了解した上で、括弧付きの「抽象」と「具象」を論じることができる。例えば...

○ 音楽においては、一定のリズムの反復が起こるだけで、すでに「具象的」である。リズムを感じさせないパルスのランダムさは、自然界には多く存在する。このリズムの解体によって音楽は容易に「抽象化」される。

○ 音楽においては、一定のハーモニーが発生するだけで、すでに「具象的」である。調和を感じさせない不協和音や予定調和を裏切る手法は、音楽に「最も暗い闇」の成分をもたらした。ハーモニーの解体によって音楽は容易に「抽象化」される。

○ 音楽においては、モード(音律)が発生するだけで、それはメロディーとして認識されるべき基盤をなし、すでに「具象的」である。モードを感じさせない音列は、旋律の解体であり、もっとも音楽を掴み難いものにした。モード/旋律の解体によって音楽は容易に「抽象化」される。

無論、音楽における「抽象」表現は、それの登場した時代との濃厚な影響関係やそれを必要とする「思想的」「文学的」の需要上の意味合いもあって、その方法によってしか伝えられない一連のムードを代表することになった。だが、生涯そのような音を聴いたこともなければ聴いても音楽として認識できないかもしれない一連の作品を生み出した。そのような「音」でなければこの世の不条理を表現できないと「決めつけた」かのように(そもそも不条理なるもの自体が疑わしいにも関わらず)。そしてあろうことか、ロマン主義の時代、交響する音楽の時代は終わったと一方的に宣言されたのであった。そして、その「新しい音楽様式」の重要性は、もっぱら別の「新しい音楽家」やプロの「評論家」や「興行主」たちによって論じられた。実際の鑑賞や演奏よりも「論じられること」の方が多いと揶揄されるほどだった。そしてそれらの不断な努力の甲斐もあって、ついにその「音楽」は「社会的地位」を得たのである。音楽を本当の意味で必要とする大多数の人々を置き去りにして。

だが、いわゆる新ウィーン楽派らは、音楽が「音楽らしくなく」聞こえるようにすることを、生涯掛けてやった。あたかも音楽が「音楽らしくある」ことに対して怨嗟を持っていたかのように(そう、そこには「分かりやすい音楽」への遺恨があった)。だが、もはやわれわれの時代では(一部の教条主義者たちを除いては)それらの試みの数々はすでに乗り越えられており、その価値は相対化されているのである。今の西洋の音楽家は、それが超克された後の時代を生きている(もっとも希望的に発言すれば!)。

絵画については知らないが、音楽に於ける「抽象表現」は、その経験からその効果を学び、より具体的且つ「具象的」な音楽をより効果的に顕現するための「影/闇の要素」として利用されることになった。つまり、音楽上の「解体」は、新たな構築(コスモス)のための「耕作可能な混沌たる原野」として、もはや演奏家や作曲家にとって(言わば、「お決まり」となった)常套表現手法の一つとして獲得され身につけられたのだ。それは、絵画で言えば、もう一つ重要な絵の具や画材を入手したということに相当するのかもしれない。控えめに言って絵画については知識がないが、真の音楽行為において、「抽象」が至上のものとして目的化されたことは、あとにもさきにも西洋伝統音楽のごく一時期の、「あのとき」だけである。

もし、「新ウィーン楽派」やそれに追従する音楽家たちの目指す方向性を「抽象性」と呼ぶのであれば、現在は、「抽象と具象の調合」が、その時代である。そして、新ウィーン楽派やその心理的追随者によって「発明された」手法は、<より大きな音楽>の実現方法の一つとして「もっと大きな目的」のために取り込まれているのである。そして、皮肉にも音楽解体の努力は、真の音楽をより輝かせるための「闇」を作ってくれたのだ。

この最後の部分は、音楽の「解体」や「抽象性」の意味付けについて、その外部から語られた言葉としては、まだ誰によっても言語化されたことのないはずの言葉である。

これは、「抽象性」を巡る議論のほんの端緒に過ぎない「ありきたりの言説」のひとつとして捉えて頂ければ、幸いである。




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