entee memo
課題が見出される庭園 - Annex:祖型と反復、宗教と象徴、神話と図像
――「あらゆる手立てを尽くして正否を明らかにしなければならないほどに
例外的に重要な論件」としてのエゾテリスム釈義

2010-04-06

岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』の再読

ウロボロス

岡田明憲氏の代表的大著(と思われる)、圧倒的に網羅的な『ユーラシアの神秘思想』を読み終えて、2週間。タイトルの同書再読。新書判でありながら(というよりはむしろ新書判のせいか)引用して論じたいことはもっとたくさんあるのだが、とりあえず、最重要と思われる箇所を備忘録として残してコメントをつける。
尾をかむ蛇は、グノーシス説のウロボロスである。ウロボロスは、世界の周期(アイオーン)を象徴するものとされ、その内部で善と悪の結合が生じると説かれる。オカルト派の解釈は、このウロボロスをゾロアスター教のズルワーンとして説明することである。この発想の起源は、アイオーンをズルワーンと同一視したミトラス教にある。ミトラス教の図像の中に、体に蛇を巻き付けた怪人像がある。これはズルワーン(時間)神であるとされ、しかもそこには、十二宮の象徴が見られる例が多い。岡田明憲著『ゾロアスターの神秘思想』(講談社)「占星術的マンダラ」より (page 191)

これは、形態的なオメガ祖型を言葉によって説明したものと看做すことができる。ウロボロスという円環する蛇の象徴は世界が繰り返す超歴史的周期であり、アイオーンと呼ばれるこの周期の連結部は、善と悪の結合するところに位置する。すなわち悪の究極の顕現によって実現される世界の終末が、新たな世界の始まりの契機となることそのものを指す。

蛇は、自らの尾を噛み付いていると同時に、自らの力自分の身体を吐き出しているようにも採れる。善なる世界は悪の頭から吐き出され、また善の頭が悪の尾を喰らい尽くし、それに取って代わるようにも見える。これは、上から見れば丸い形状を保持する円筒形の器、たとえば茶器として現れれば「暦茶碗」となり、その善と悪の結合部には、宝珠や三位一体をあらわす象徴的記号が、聖体として顕示される。この宝珠や三位一体は、善や悪を超えた、しかし戦慄すべき聖なる計画としての「出来事」である。生まれ変わりを待ち望む者たちにとっては、善の実現であり、現世の悦楽を楽しむ者たちにとっては、悪の権化の到来を意味する、一大エポックである。

つまり、時間の円周の半分は善なるものとして在るが、それがやがて死に向かうとき、残りの道程は腐敗の半周、つまり悪の半周となる。悪は善によって実現され、善は、悪によって実現されるのである。

こうした記述が、書籍の一番最後にくるというのは、錬金術関連書籍の伝統からすると、まったく反対である。錬金術書の伝統ではウロボロスは、巻頭の扉ページにくるものである。「まず円環ありき」なのである。ところが、岡田氏のこの本では、この超歴史的エッセンスとも言うべき図像、および、それに関する記述を本書の一番最後に持ってくるという選択を採ったのである。それはそれで、《反対物の一致》ではないが、ひとつの正しいメッセージを伝えるのには十分な効果があるのである。それはひとつの書籍の終わりであるし、それはまた新たな探求の始まりの転機になるからだ。

23:50:34 - entee - TrackBacks

2010-03-23

G・ファン・デル・レーウ『宗教現象学入門』を読む #3

浄めは、非常にしばしばある時期から次の時期への移行に当たり、境目をなす危機的な時点で、通過儀礼として行われる。その際、前の時期の「汚れ」(ここでも、われわれの公共的清掃事業の意味ではない)は、すべて祓われなければならない。ローマで、国家の力の中心であるヴェスタ神殿が年に一度浄められた時には、危険が空気中に漂っていると言われた。浄めをする日は、「俗的行為禁止の日」(dies nefasti)、つまり不幸の日とみなされた。汚れは慎重に隠されたのであるが、それは神殿の汚れのみならず、一年間の国家の汚れにも及んだ。(中略) 季節や年の交替は、大掛かりな浄めを伴う。見たところ──少なくとも多くの人々の目には──何か災いに満ちた聖、不幸という性格の一部が、浄めの概念の中に残存しているように思われる。
「神と人間──聖なる行為──」(の章)より、「A 外的な行為」の「26. 浄化、供犠、聖餐」より(page 199)

レーウの文章から、自分の「周回する浄化儀礼」や「オメガ祖型」の理論に支持を与えるような記述を見いだすことになるとは予期していなかったが、ついにそうした記述に遭遇することになった。

ひとつの時期から次の時期への移行期に「浄め」が行われるというのは、ここに書かれているように、世界中の広いエリアで観察されるのは確かな事実のようだ。オメガ祖型のいくつかの例を挙げるにあたって、筆者はかつて、日本の伝統的正月飾りの一つであるところの門松(かどまつ)や、とりわけ茶道の歳暮の時期に使われるらしい特別な茶器、「暦茶碗」などを取り上げて論じたことがあったが、まさに周回する時間の中でも、われわれに身近な「1年」という周期における一巡の時期、すなわち「年末年始」という次の周回へと移行していく「時の狭間」に《Ω》の形状を連想させるモノが出現し、そもそも大きな周回であるところの《Ω状》の未完の円相が閉じる(つまり、円の始まりと終わりがくっ付いて連結する)というコトの成就のために重要な役割を果たす、ということを論じたのであるが、レーウはこの過渡的な時間的狭間を「境目をなす危機的な時点」と喝破した。そしてそれは前時代に溜まった汚れという時間的な残滓をすべて祓い清めるための儀礼として捉える。

omega1

彼は、ここで「われわれの公共的清掃事業の意味ではない」とわざわざ括弧の中で断っているが、page 198でもレーウが記しているように「最初になされなければならない聖なる行為」としての浄化を、衛生上の観点から現代的な再評価が与えられているような「モーセやイスラム教の戒律」の解釈は、「すべて誤りである」と正しくも断定している。

浄めの祭祀が、「危機的」と記述されるようなエポックであるというその論拠は、今年に入ってから筆者がシリーズで取り上げた「反対物の一致」における論点といささかも矛盾しないどころか、それを裏付けるものとなる。つまり、危機的な過渡期を伴う周回は、単なる自然現象であるというよりは、きわめて人類的で人工的な何らかの動作を繰り返す行為であり、しかも危険を伴う儀礼なのであり、それがなければ古い世界は生まれ変わることができない、そうした分娩のような、ある種、「自発」的行為なのである。つまり、1年という地球の公転周期以上でも以下でもない自然現象的な周回は、その人類的・歴史的「行為」を思い出させる象徴的な範型なのであって、人間はその周回する時間を口実に、かつての人類が行ったところの「浄化儀礼」を模倣する契機としているというのが正しい。つまり、地球の公転周期や、それに付随する植物の一年周期的な生命現象から、人間が儀礼を学んだのではなく、人類の祖型的反復行為に、地球の公転周期が酷似していたと言うべきなのである。

omega2ウロボロス

今にも我が尾に食い付いて輪のように繋がろうとするΩ状の「未完の輪」を、閉じた「ウロボロス」のような完成した円環とするための契機が浄めの祭祀、すなわち「集団的浄化儀礼」なのであり、それの模倣しようとしているコト(事態)は、まさに人類の全滅を惹起しかねない危機的な「ゲーム」なのである。

この引用の後半部、「見たところ──少なくとも多くの人々の目には──何か災いに満ちた聖、不幸という性格の一部が、浄めの概念の中に残存しているように思われる」という部分は、とりわけ高い重要性を持っている。これこそが、円環の終わりに訪れる一種のお祭り騒ぎと、それが終わった後の嘘のような静寂という正月や過ぎ越の祭りに共通に見出される「意味性」なのであり、儀礼の背景において、今にも捉えられようと待機しているエッセンスなのである。聖なるものが不幸を暗示するというのは、まさに「反対物の一致」のひとつの側面であるし、「死を伴わない聖は存在しない」という筆者が、ここ最近提唱している「聖の本義」に関わる部分である。つまりレーウがここで暗示していることこそ、「大量死」という悲劇(災い)が、聖を成り立たしめるのであり、そしてその不幸(きわめて巨大な悲劇)の記憶が、「浄め」の意味合い(あるいは正当化)を必要とするということなのだ。


ところで、この(悲劇的とも呼ぶべき)歴史的エポックを「浄め」や「祓い」として諒解しようとする、言わば「宗教化された象徴理解」は、それが儀礼と化した時点ですでに堕落への一歩を進んでいる。レーウはその点についても抜かりなく指摘する。
目覚めつつある道徳的・合理的意識は、遅かれ早かれ、歴史を持ついかなる宗教の中でも儀礼による浄めに異議を唱えるに至るものである。(page 200)
つまりひとつにはキリスト教において行われる洗礼の儀式に「なぜ水が使われるのか」という抜本的な疑問は、依然として信者によってはなかなか呈示されにくいことではあるが、実はそうした疑問が大多数の信仰者たちによって抱かれる以前に、批判精神を持つ一部の宗教改革者たちによって、「もはや未開人のように思惟しなくなった人間は、両者[物質的な汚れも精神的な汚れも]を区別しはじめ、儀礼という手段を精神を損なうもの[形式主義/教条主義]であり、品位に欠けると感じるようになる」(page 200)のである。

[ ]内は筆者(当方)による。

しかし、一方でこうした形式主義としての儀礼や教条主義としての聖典(テキスト)を、宗教の慣習が保持していたことは、読み解き得る暗号を後世に伝えるという点では、少なくとも重要な役割を果たすのであり、宗教現象を道徳的価値だけで捉えようとする信心(信仰心)も、また別の教条主義へと宗教を矮小化する要因の一端を担っているのである。

そこで思い出すべきが、聖なるものは俗なるものによって実現する、あるいは、密教的な宗教の本義は、顕教という「反論しがたい大多数の支持を得る“善”」という容れ物によって世代を超えて運ばれる、というパラドキシカル(逆説的)な奥義について、なのである。

(続く)

参考文:
「忘れられた宗教の機能」についての長い補足
23:58:14 - entee - TrackBacks

2010-02-14

交互に現れる夜の世界と昼の世界について #1

親愛なる友よ! 例えば音楽においては自然模倣によっては何事も為しえないように、芸術の中の芸術的なものは自然模倣とは何の関係もありません。(R・シュタイナー「アカンサスの葉」より)

Acanthus Leaves
画像引用元:ハーブの育て方や効能・ハーブで健康生活!

Acanthus Flowers

画像引用元:花の家:今咲いている花情報(神奈川県三浦半島)


Acanthus red cloth
画像引用元:ALBUM Fuente Boylston:生地アカンサス赤

Acanthus by W. Morris
画像引用元:インテリア備品>ウィリアム・モリス:輸入家具・雑貨の専門店 e木楽館 Acanthus Scroll (by W. Morris)

「アカンサスの葉」という節の中でR・シュタイナーがアカンサスの葉について開陳している具体的な意味解釈そのものを支持するかどうかは取り敢えず脇に置いておこう。だが、象徴図像に対する取り組みの重要さという点で、彼の話の中には大いに耳を傾ける価値がある。そうした象徴物への態度については、人智学者や神智学者でなくても、特定の宗派への信仰を保持しなくても、象徴そのものへの瞑想的なアプローチによってその本質に迫ることは可能なのである。

芸術的創造のこの内的・原理的なものを再び発見することがないならば、私たちの柱頭のフォルム、否それどころか私たちの建築全体のフォルムの根底にあるものが理解されることは決してないでしょう。今、象徴的に言えば《籠の仮説》を擁護する人は決して私たちのことを正当に理解はできないだろうということです。(ルドルフ・シュタイナー『新しい建築様式への道』第1講義「アカンサスの葉」page 30より)


R・シュタイナーは《籠の仮説》について、数行前で以下のように説明している。「コリントの彫刻家カリマコスがあるとき偶然底に置かれている小さな籠を見つけ、この籠の底の周りにこのアカンサスの葉が生えていた... それゆえ、彼はアカンサスの葉に囲まれた小さな籠を見て、そうだ、これがコリント式の柱頭を与えてくれる、と言った... これは考えられる最も純粋な唯物論です。」

(自分ならここは「最も素朴な唯物論」と訳すだろう。だがそれは置いておくとして、)彼がここで言おうとしていることは、われわれが何度も繰り返して説明している秘儀の顕教的説明と秘教的説明の意味の二重性に関連している。本当に重要なことは、歴史的な(唯物論的な)説明の中にはないということだ。民間伝承的に伝えられるなんらかの象徴物あるいは聖典の伝えるような象徴的物語の成立逸話が、字義通りに信じられる価値のあるものではなく、ある種の説明便宜上の単純化が、その象徴物の存在を後世に伝える役割を果たすものの、その根本的重要さの説明自体にはならないという話である。

ここでの例で蛇足すれば、彫刻家カリマコスが着想したと言われる理由を説明する歴史的な「事実」は、それが真実であったかどうかに関わらず、カリマコスが何らかのインスピレーションを授かった事実の一端を伝えるものではあるかもしれないが、その本当の理由やインスピレーションの内容そのものについては、まったく何の説明にもなっていない。つまり、こうした逸話を教育的理由で記憶しよう(させよう)とする人類の努力は、その「事実」を後世に伝えはするが、その内容的な本質は、《コリント式の柱頭》そのものからわれわれが直接受け取らなければならないのである。

こうした象徴物などの存在を後の世に伝えようと働く逸話は、典型的には観光ガイドが丸暗記できるようなものとして十分な簡略化と覚えやすい展開とを以て口伝されるが、その存在の伝えようとする《普遍的題材》とも呼びたくなるような本質的内容自体、そしてその価値が、その象徴物自体に対峙する個々人がそれぞれ受け取らなければならないという、ひとつの二重性を保持する。まさにこのパターンは、例えばマドレーヌ菓子が何故「貝の鋳型に流し込まれて作られるのか」ということの歴史的な説明(それを発案したのがマドレーヌという名の女性だったから、というような即物的な説明)、あるいはシュタイナー流に言えば、「唯物論的な説明」としては十分なのかもしれないが、それを記憶するだけで事足れりとしてしまえば、それを伝え聞いたことの真の重要性は受容していないことになるのである。

いかなる聖なるものも、それが伝えられるその仕方とは、世俗化されて受け入れやすい説明、そして分かりやすく覚えやすい説明という《乗り物》に載せられて、太古の昔から今日という時代まで運ばれてきたものだ。一見宗教性との兼ね合いさえもないかに見える事物が、きわめて神秘的且つ日常的に了解困難な内容の伝達に寄与してきたのか、ということに気付き、解き明かし得る謎の鍵として機能することを、われわれは何度も思い返す必要がある。

■ 関連文書
“ヴィーナスの丘”と褥の皺と [2]

秘儀(密教)は顕教によって伝えられる

17:53:08 - entee - TrackBacks

2007-06-06

壷の底に見出されるもの
(あるいは「壷を焼く」という儀礼に関わる)

Pottery over Tokyo

轆轤(ろくろ)を使って作ったと思われる壷なども含め、もっとも簡素な素焼きの土器の多くが、一見、地面に自立できないような丸まった底になっているのは、おそらく立てるための三脚状の道具が別にあったか、地面の窪みにそれを直接嵌め込むか、その辺りの機能上の理由のためにそうなっていると想像されるが、平らな場所に自立させておくことができない意匠の壷が、これほどの数で古今東西のさまざまな民族の古代遺跡から発見されるという事実には、別の隠れた意味の存在を考慮してみる必要があるのではないかと考えさせるものがある。

一年草の植物のライフサイクルのパターンは、発芽があり、伸張と成熟があり、花を咲かせる時期があり、結実があり、最終的には枯死がある。そして枯死には播種が伴われることがある。この、季節の巡りに併せて一見終わったかに見えるひとつの生命史は、来る年の迎春における「発芽」という劇的な復活のエポックを経て、再び誕生から枯死へのサイクル(周回)の途に就く。これは通常、植物の典型的特性として理解されている。それはまた、まったく正当な理由により、錬金術の象徴体系に用いられる比喩としても登場する。

一方、動物のライフサイクルは、誕生と成長があり、成熟した個体が生殖によって子孫を残し、その役割を次世代にバトンタッチして終えるというパターンをとるので、普通そこには生命活動の断絶は存在しない。冬眠行動をとらない限り、そこには仮死状態を連想させるようなライフサイクルの休止局面がないのである。仮に冬眠したとしても、これは次世代への生命継続の連携とは無関係である。ヒトの個人の人生について言えば、このことは他の動物と同様で例外ではない。植物のライフサイクルと動物のライフサイクルには対照的な相違が認められるのである。

だが重要なのは、集合体としての人間――人類の歴史(文明)――が、まさに植物のライフサイクルを思わせる範型を持っているという事実である。

人間が「文明の極」への旅の第一歩を踏み出す(それは終局の直後から始まる)とき、人間の手によって造り出されるあらゆる道具が、記憶にも新しい「人類の上に起こったある悲劇的できごとと同様のこと」をふたたび引き起こす、発端の萌芽があるということに気付かないほど彼らが愚かであったとは考えにくい*ことである。彼らは、われわれよりも「そのできごと」に遥かに近い、いわば「戦後」を生きていたのである。その畏怖すべきできごとの原因が、人間の道具に依存する、いわば「モダニズム」や「改革性」の中にこそ潜んでいることは、彼らなりの方法で伝承されていた筈である。

* 唯一神への信仰を強要する普遍宗教の類が強調する「偶像崇拝の禁止」とは、キリスト教のイコンのような宗教的な崇拝対象物に限るものではなく、実は「あらゆる人為的創作物への崇拝の禁止」であったと考えられる論拠がある。人間が人間の手によって作り出すものを絶対のものとして崇拝することは、人間が人間の潜在能力を過信することを意味し、人間によって解決できないものはないとする人間の自己愛と自己過信へとつながっていくのである。その自己過信が、人間自身によって解決することのできない問題を人間自体が作り出すことになり、それが人間自身を一旦完膚なきまでに滅ぼすのである。

さまざまな場所で採られてきた伝承のための儀礼的道具(記憶術)が、例えば貝殻であり、あるいは紐で束ねられた収穫物であり、または植物のタネや葉なのである。大規模施設としては、前方後円墳のように「墳墓」として信じられているような儀礼場も含まれる。そしてそれぞれの持っている形の中に、古代の人々が維持した記憶を連想させる記号を見出すのだ。むろん、それを連想させる理由は、「メメントモリ(死を想起せよ)」という言葉で以て、自戒の念をいくどでも想起させる、古くからの習慣と根を同じくするものであることはいまさら言うまでもない。

その記号は、宝珠のような、キツく絞られ細くなった「軸」ないし「支柱」を下部に持ち、その一定の長さの軸(支柱)が、あるものの上昇運動の「軌跡」に一致し、それが上空で炸裂するというような、花火や薬玉と言った祝祭的な儀式にも通ずるような、ある種の運動や化学作用の様態、そしてそうした祝祭を連想させるある種の物質の爆発的な膨張を表す「量的」な象徴物となる。これはできごと自体(コト)を表す。

そして、この「キツく絞られ細くなった軸」を持つ形状は、その輪郭が鍵穴のような形状として表されることがあり、またその輪郭は羽根を持ったシャトルコックの様な形状そのものである場合がある。これは「できごと」自体ではなく、「できごと」を引き起こすモノを表す。

これら結果としての「できごと自体」とできごとを引き起こす「原因物」の両方を表すことのできる、きわめてまれなひとつの道具とそれらの形状の持つの総称が、筆者が提唱している「Ω祖型」と名付けられるべき象徴的図像の、通奏低音的な、最も普遍的な「イコン」なのである。

このΩ祖型は、轆轤で形作って焼いた素焼きのつぼによっても古代人の眼前に現れたものであり、それは壷という「道具」としての純粋な機能とともに、ある種の戦慄を呼び起こすものであった。何故ならその形状が「死のできごと」を連想させるものであったからである。道具が彼らの生活の利便に供し、それが彼らの生存を有利にしつつも、それ自体の成長と進化の果てに存るものが、「死のできごと」を引き起こすものと類似の形をしているという暗合は、きわめて象徴的である。これはヒョウタンを道具として利用するホピ族のようなアメリカ・インディアンの伝承の中にも、「灰の詰められたヒョウタンが頭上へ落とされる」という預言があることなどをわれわれに思い出させる。焼き物に限らず、ヒョウタンの実のようなモノを詰めるのに最適な原始的な容れ物が、まだ実現に至っていない「未来の道具」の形を伝えるための記号となっているのである。つまり、最も原始的な道具の原型とも呼ぶべきものの形状が、最も進化した究極の道具の形状と似ている*ということ。そしてその形状に対する元型的な記憶の共有が、文化的な記憶術を通して引き継がれているのである。

* 最も原始的なツールが最も洗練されたツールの形と類似しているという不思議な暗合は、S・キューブリックが映画『2001: Space Odyssey 2001年宇宙の旅』の中でも鮮烈に描き出している。映画冒頭の「人類の夜明け」と呼ばれるシークェンスの中に、われわれ人類の祖先となる類人猿の「ひとり」が、動物の骨を食料確保のために動物殺害のための道具として初めて用いたのち、それを勝利の歓喜とともに宙空に放り投げたとき、それが落下途中で21世紀の宇宙船に変容するというシーンである。
Odyssey1 Odyssey2 Odyssey3

それにも関わらず、そうした記号的な意味を、その日常の必要から造り出した道具の中にも込めたのは、意図してでないということができようか?

壷は、今食する以上の量の(余剰の)生活の糧を貯め置くために現れた。したがって壷こそ、未来における自分たちの生存のために少しでも有利にするために製造された最初の洗練された道具のひとつと言えるだろう。そしてその《壷》は、象徴的なことに、文明というすべての事件の発端をもたらしたものであると供に、その終焉(あるいは救済)をもたらすものの形状をも予想する記号なのである。すなわち、余剰作物だけでなく、実利に資する道具という全ての元型的なものの《究極的な姿》をも詰め込み、その智慧のすべてをわれわれのために「貯め置く」ためのものでもあったのである。

■ 拙サイト内の参考文
金剛への第一歩──Ω祖型とは何か[2]




20:39:00 - entee - TrackBacks

2007-05-30

Ω祖型の事例増える

Gaza Antiquity Olmec Tablet

2005年10月から2006年2月までの間、当entee memoにて掲載した「金剛への第一歩〜Ω祖型とは何か」のシリーズは、多くの図版を牽いて古代から伝わり反復されるひとつの祖型的図像の意味を大胆に解き明かし、「古代人」がわれわれに伝えようとした過去の重要な出来事について注意を喚起しようとした。
(こちらは古い記事が最も下に来るというblogらしい設定になっているので、下までスクロールダウンしていって、最初から順序通りに読まれるのもよいし、後の結論からだんだんに後に遡っていくのも良い。いずれにしてもどちらが面白いかといえば、書かれた順序通りに辿っていくことだと思われるのだが、本と同様、必ずしも読者に最初のページを開いてもらえるかどうかは分からないのである。)

昨年の秋から今年にかけて立て続けに米大手メディアに特集記事として古代の遺物の画像が伝えられたが、その中にかなり典型的と言っても差し支えないようなΩ祖型的な象徴的図像が登場していた。遅ればせにほぼ同時にこの二つの記事の存在を知るに至ったので、それをとりあえず紹介して自分の備忘録ともしておく。おそらく父の死とその後の対応で忙しかったために目に停まらなかったのであろう。

そのひとつは、TIME誌のJune 4, 2007(2007年6月4日号)のp. 49のGlobal Adviserというセクションで組まれたもので、「The Glitter of Old Gaza. Inspiration lies in Palestine's antiquities: 古代ガザの絢爛。パレスチナの遺跡にインスピレーションはあった」と題される記事。
TIME June 4
ここには「台座 + 柱+ 炸裂する光」でも取り上げたようなカトリック聖体顕示台(モンストランス)(a)や愛染明王(b)のような「台座 + 支柱 + 光輝」と思わしいΩ祖型図像が「3回」も繰り返えされて示される石板(タブレット)の破片写真が掲載されている。アラビア語(?)のカリグラフィーと思われる文字の図案化されたものが見られるが、何が書かれているのかはきわめて興味深い。

DISCOVER誌のJan. 2007(2007年1月号)のp. 49の「ARCHAELOGY - Oldest Writing In New World Found: 考古学──新大陸における最古の文字発見さる」と題される記事。ここで掲載されているメキシコで新たに発見されたオルメカ文明のものと思われる文字盤には28種、合計62の文字刻まれている。
Discover
Overall tablet
記事によればこの文字はトウモロコシなどを含む象形文字と思われるというが、そのトウモロコシを思わせる転倒型のΩ祖型、饕餮(とうてつ)を思わせる三本足(三位一体の世界像)、そして大林組の鬼瓦にも共通するような「あからさまな真性Ω祖型の図像」などが含まれている。これはホピ・インディアンの神話に登場する「落下する灰のつまったヒョウタン」や、ナヴァホ・インディアンのサンド・ペインティング(砂絵)にも見られる「落下するシャトルコック」(c)のパターンを強く連想させるもので、実に戦慄すべき図画内容なのである。

「羽子板の羽根にしてもバトミントンの「弾」にしても、それらが同じような形状をしているのは、比重の高い(重い)材料でできた先端部とそれに取り付けられた比較的比重の低い(軽い)材料でできた基部である。... 一定の方向を保ったまま飛び続けるという目的を果たすなら、それらは同じような形になるであろう。それはまさに時代や状況とに関わらず「機能が要請する形状」というものは大体同じような条件の形体を共有するからである。 」(自著 金剛への第一歩──Ω祖型とは何か[3]より引用)

monstrance(a)
aizen_myoo(b)
Atomic bombs Shuttlecock(c)

こうして見ると、古今東西どの文明にも共通して見出せるのは、このΩ祖型だというのはより強く裏付けられるように思えるのである。

以下のブログもこのニュースの発表の時点で取り上げていた。
http://blog.livedoor.jp/hvw_hanai/archives/50757022.html
http://blogs.dion.ne.jp/bunsuke/archives/4160278.html

全く遅ればせの、驚きと紹介なのであった。

01:08:56 - entee - TrackBacks