entee memo

2007-06-29

「解釈」や「自覚」を越えて

「ブラックサバス問題」だが、それは個々の作品と、作品の時間的/空間的「連なり」をどう捉えるのか、言い換えれば作品自体に個別に対峙するのか、作品群の中に個別の作品の特定の位置を発見して発展史という文脈の中でそれらを捉えるのか、という二者択一の問題に行き着く。

そこまで書いて、ふと一昨年の今頃書いた「自覚的であるということが、創作内容の芸術性の決め手となるか?」という文章を思い出した。
(時間のある方は後で読まれたい。)

まあ言ってみれば、大なり小なりマニア的な(あるいは熱心な)芸術の愛好家というのは、単に行き当たりばったりに個々の作品を鑑賞しているのではなくて、往々にして作品を「文脈:コンテクスト」として捉えられるほどのまとまった量で鑑賞するものであるし、そうした横断的な鑑賞法がもたらす感慨には、個々の作品から単独で得られる感動と同等か、もしくはそれ以上に興味深いことがある、ということを知っているということなのだ。そして評論家が評論家である理由というのは、こうした歴史的文脈で「作品を理解する」ことができる歴史鳥瞰的な眼を獲得したということに外ならない。だがもちろんこれは評論家だけの特権ではなく、あらゆる創作者が持っていても「損はない」ひとつの視点ではある。そこまでは便宜上、認めても良いだろう。

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2007-06-27

『バベル』の塔は「人間の愚かさの象徴」だったか?

babel tower
上掲の拙論見出しに対する私の考えはこうである。

「バベル」とは人間が互いに協力し合って「組織的に神に近づこうとする」ことに対する、人間に対する神自身の直截な怖れと嫉妬を象徴するものであって、映画紹介のネット記事のあちこちで「まとめ」られているような「人間の愚かさの象徴」などではない。とんでもない間違いである。バベルの塔は、人間の限界についての象徴ではあっても、愚かさの象徴であったことはない。これは強調しておいて無駄ではあるまい。

むしろ愚かなのは人間をそのように作った神自身ではないのか?という人間からの反問... そして、一見乗り越え難く立ちはだかる言語の壁という、神からの挑戦として人間に科されたペナルティは、映画で描かれている程度には今日でも常に乗り越え「られよう」としている。

そして物語の端緒となる被造物・人間によるひとつの行為、あるいは国境を越えて言語の違いを克服しようとするひとつのコミュニケーション上の試み──モロッコに赴いたひとりの日本人の置き土産──が国境を越えて侵犯する別の侵略者に対する「牽制球」となり、それが連鎖的に世界各地の家族をバラバラに分断する(はず)という、神によって目論まれたドミノセオリー的な「次のバベル」。そんなケイオティックな宿題となるはずだった。その端緒となるべき行為の主は、現代のバベルたる絢爛たる摩天楼乱立する東京を根城とする。

babel leaflet
実は神による人類史への初期介入、すなわち言語の意図的な混乱が、人をして「天にも届くような」一本の高い塔を建てることを諦めさせるどころか、世界中に異なった種類の塔を乱立させることになった。競い合って。

かつての神の狙いが失敗したように、この度も神の意図は覆される。この度の人間のささやかなる勝利は、確かに「ある若い命」を引き換えに得られたものだ。だが、神の挑戦は家族の絆をより強いものにすることにしか働かない。神の意図はまたもや裏切られるのである。

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アレハンドロ=ゴンサレス・イニャリトゥ Alejandro González Iñárrituという長いメキシコ人名を見て、すぐにピンと来た人は、余程の映画通か、映画業界人か、さもなくば遠くない過去に作品のひとつを観て印象に残っている人か、はたまた、つい先頃、映画『バベル』を観たばかりの人かもしれない。いや、映画を見ても監督名までは失念している人も少なくあるまい。かくいう自分もなかなか覚えられなかった。

イニャリトゥの近作のひとつ(というか、彼は割と最近出てきた人のようだ)である、なかなか挑戦的な問題作と呼びたい『21g』(にじゅういちぐらむ)という映画をビデオで観て、その監督がイニャリトゥであることは最近知ったのだが、現在(それほど盛り上がっていないが)、それなりに話題になっている大作風『バベル』も、イニャリトゥが監督しているということをたまたま知ったので、観に行ってみようと思ったのだ。(ツレの“誕生日月割引”を利用してみたかったのもあるし...)

足を運んだのは吉祥寺プラザというバウスシアターの裏手に当たる目立たない映画館で、全然混んでもいない。でも本格的な大画面上映館である。18:50からのナイトショーのみ。

予想に違わないと言うか、劇場映画としてシアターまで足を運んで観てみる価値のある作品であった。自分の認識の底の浅さのせいであるのは言うまでもない。だが、メキシコはアメリカと国境ひとつ隔てて対峙している「北米」の一国だが、音楽と料理以外はいまひとつ知られていないような気がする。実際、今となってはイニャリトゥ以外、メキシコ人映画監督の名前を挙げよと言われても思いつかない。

同時並行的に異なる場所で起こる出来事(しかも相互の関連性がなかなか見えない)を映像で追うばかりでなく、そのタイムラインさえもズタズタにして再構成した『21g』は、シーン断片の集積がだんだんにひとつの事件の像を結んでいくというもので、その善し悪しはともかくとして、ストーリーそのものの力というよりは、編集テクニックにきわめて偏重したともだった印象もある。これについては後述する。

また本作もこの前作同様、きわめてシリアスな内容で、不条理を含むきわめて後味の悪いリアリズムを映像を提示する、そんな映画作りであったが、その同時並行的に世界の各地で起こる事件の相互関連性が徐々に見えてくるという手法は、この度の『バベル』でもおおむね踏襲されている。だが『21g』でフォーカスされていたような「自動車事故が引き起した連鎖的な悲劇」と、人が人と結びつこうとする「コミュニケーションに渇する心の動き」というテーマが、この度は、詰まらない理由で「暴力装置」の引き起したひとつの事件の悲劇の連鎖、そして言葉が通じない(それは単に言語の相違を乗り越えられないということだけでなく、同じ母国語を共有する者同士でも「通じ合わない」)というコミュニケーション上の断絶、そしてその回復、あるいは回復への端緒を描く。

「重くもどかしい」という評をどこかで見たが、それをストレスとして感じる鑑賞者がいるということは、監督の意図は成功していると言うこともできるだろう。まさに通じ合えないという現実世界のもどかしさがこの作品のテーマのひとつなのだから。

モロッコ、合州国、メキシコ、そして日本。と、4ヶ国同時並行的に進行するドラマであるが、冒頭のモロッコの高地地域の空気と羊飼いたちの生活、そして眼下の砂漠地帯を横切るアメリカ人観光客のバス、という異文明者による領域侵犯という違和感が、きわめて興味深く描かれていた。そしてどこにでもあるような思春期の少年(少女)の持つ性的好奇心の目醒めなど、思わず眼を背けたくなるような赤裸裸で本音の映像表現もが混ぜ合わされていて、ドラマのリアリティを否応無しに高めていた。


■ 編集(時間操作)に偏重した映画作りについて

これについてはその正否を判断できる立ち場にはない。だが、映画が演劇的作品の延長であると考えたとき、時系列の編集による改編というのはドラマツルギー(作劇術)の王道ではないことになるかもしれない。その点で言えば、例えば黒澤の『椿三十郎』のように(あるいはきわめて多くのドラマがそうであるように)、ごく例外的な回想的場面を除いては、事件の進行を時間通りに追う形で進むのが最も保守的で正統的な方法と言って差し支えはないだろう。

だが同じ黒澤作品である『羅生門』のように、同じひとつの事件でも視点によって全然捉えられ方が違うということを描く不条理劇の場合、ドラマ自体が回想によって構成されざるを得ず、時系列の操作というのはきわめて必然的に選択されるべき手法であるということになろう。あるいはドラマ全体が大きなひとつの回想であるという手法は映画でも劇場演劇でも使われる常套手段だ。

そうした中で、イニャリトゥの本稿で言及しつつある(少なくとも)2作品で採られた編集による時間操作というものは、『バベル』においてはやや後退し、映画制作上、より必然性を帯びてきた(結果として観やすい)ということができるだろう。『21g』は、時間系列的に全てのシーンを並べ替えつなぎ直したら映画そのものがおそらく成り立ち得ないほど編集技術に依存していることができる。だが、全体像を見せず、鑑賞者に常に想像し続けることを強いるという「作り」は、鑑賞している2時間の間、大きな緊張感の中に鑑賞者を落とし込むことになり、逆に言えば、「きわめて映画的な作りになっている」とも言えるのである。これほどブツ切りなシーンの呵責なき連鎖というのは、おそらく劇場演劇によっては再現が難しいであろう。


■ 音について

ネタバレになるのでここでは詳述しないが、観賞後、大いに対話や議論を刺激する類の内容であった。そして忘れてはならないのが、サウンドトラックの秀逸さである。これは、映画のDVD以上に、確実に消費意欲を刺激されるものであったことは忘れずに付け加えておこう。音楽だけでも語るに値するぞ、これは!

もうひとつ付け加えるなら、日本が舞台になったシーンのバックで掛かっている音楽というのは、一聴して西洋楽曲なので、それによってどうしてそう感じるのかは分からなかったが、その音楽だけで強く日本を連想させるムードを持っていた。これはどういうカラクリになっているのかと思って最後のクレジットを観たら、日本のシーンについては音楽担当が坂本龍一になっているのである。彼の音楽をそうと知らずに聴いても十分に日本を(あるいは日本映画のムードを)連想した自分がいたのである。


■ 最後に

いずれにしても、ブラッド・ピットやケイト・ブランシェットといったハリウッド系俳優たちを性格俳優として配置するという大胆なキャスティングをしたイニャリトゥの「今後の変貌が楽しみ」なのである。『バベル』は文字通り国際色溢れる大作になってしまったので、今回の作品の興行成績次第では「次がない」可能性もあるが、そうならずにイニャリトゥ特有のテーマを独自の方法で追求していって欲しいものである。今度はもっとメキシコを観たいなどと夢想しているのは私だけだろうか?

本作をアメリカ映画だと呼んでいる人がいたが、私はその考えに賛成しない。



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2007-06-26

映画『ミリオンダラー・ベイビー』からの教訓

milliondollar baby
以前、どこかで映画作家で批評家の西周成氏の書いていた評論を読み、クリント・イーストウッドの監督作品である本作を意外にも肯定的に評価していたのに興味を抱き、いつか観てみたいと思っていたのだが、ビデオをレンタルしてついに観た。

以下は、それで得た感慨。

1)人生の価値は、それがどう終わるかによっては判断できない。
(人生の価値は、その始まりにも過程にも終わり方にも、どの段階にもあるだろう。)

人生の終わり(死に方)の有り様は、その生き方の中に原因が求められるが、生きる者すべてに終わり(死)が来る以上、その死に方はひとつの結末ではあっても、人生そのものの価値とは関係がない。

人生の価値がその終わり方(死に方)にのみ見出されるとする者には、終わりだけを「良く終わらせる」ための追求が長い人生の中身となろう。人生の半ばは、全て手段であり、方法であるということになる。

だが、一体生を受けた何者が自分の死期や死に方を正確に予期できよう?


2)ひとが他人と関わり、コミュニケートし、何事かを伝えるという行為は、何事かを達成するための手段であるに留まらない。それ自体が価値であり、人生の中身である。

【結論】
「終わりよければすべて善し」は、人生の本質を捉え損なう、余りに単純化した言い方ということになろう。

PS. それにしてもモーガン・フリーマンが狂言回しとして、とつとつと語るあの語り口は、『ショーシャンク』のときも然りだったが、映画の成功の一要因となっているようにも思え、ちょっと演出家としては「ズルイ」ところかもしれない。それほど別格の「語り部」だ、フリーマン。


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2007-06-20

あるのはブラックサバスである

Sabbath
あるのはヘヴィーメタルでもハードロックでもプログレでもない。あるのはメタリカであり、ブラックサバスであり、フランク・ザッパである。あるのはハードバップやフリージャズやフュージョンではない。あるのはアート・ブレイキーであり、コルトレーンであり、ジョン・マクラフリンである。ジャンルはすべて幻想である。あるいは評論家諸氏の頭で複雑な音楽の宇宙を「理解」し、ちんまりとそのなかに収めるための利便である。

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23:00:00 - entee - TrackBacks

2007-06-17

イエスの墓がどうかしたか?

[イエスの墓]「発見」論争熱い欧米 エルサレムは冷ややか
すぐにリンクが切れるだろうから画像をここに。

宗教の教示した神秘や驚愕的価値はこんなところにはないぞ。言っておくが。

私が以下のリンク先の記事などですでに何度も繰り返しているように、「史実としてのイエス」なるもの信憑性にいちいち一喜一憂して振り回されているようでは(それを否定する側とそれを肯定する側の双方にとって)まだまだ本当の意味で宗教の役割の意味や聖性の本源に触れるのにはほど遠く、なんら成長の機会がないとしか言いようがないのである。私はキャメロン氏の映画はそれなりに評価しているが、イエスの墓に夢中になるようではまだまだ底が浅い。

われわれにとって、イエスの史実性とはまったく副次的な価値しか持たないものである。イエスの存在が史実であれば、地球の表面のどこぞにその骨のひとかけらくらい残っていても不思議はない。だが、それはわれわれが探求することをやめないその対象なのであろうか? われわれは未だに聖杯を追い求める冒険者のレベルに留まっていていいのだろうか? その答えは断じて否である。

それではわれわれは信仰者として、「神の子」イエスを崇拝することでその役割を果たしているのか? 否。否。断じて否である。イエスを神の子と呼びたいその心がわれわれを欺瞞の壷の底に叩き落としているのである。何度も繰り返すが、聖書でさえイエスのことを「人の子」と呼んでいるではないか!

われわれにとってのキリストの価値とは、それがイエスであったのか、それが「救世の主」であったのかどうなのか、そのようなこととは何の関係もない。われわれにとって、「イエス」なるコードネームは、どこぞの聖書考古学者が生涯をかけて追い求めるような、物質的な対象物でもなければ、復活をして天に昇ったとされる信仰者の対象たる「神の子」でもない。

それは「死してまた甦る」という「死と再生」を表す神話的元型の、最もわれわれに近い時代を生き延びた「最後の神話」としての価値がある。そしてその「神話」を完成させるべく、現在進行形のプロットとして、われわれの文明が進捗しているという事実に、本当の価値が見出されるのだ。これは過去の象徴的物語であると同時に、未来を占うものである。

【過去の参考記事】
流行ったものは廃れてしまう(栄枯盛衰のことわり)
http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=159554

宗教の「第三の機能」への一瞥
ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本』を読む [1]
http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=159740

イエスとマグダラの「婚姻」の意味するところ
http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=164039

これ以上何を言うべきであろうか? キャメロン氏には悪いが、彼が全く無自覚に造り上げた商業的大作『タイタニック』にさえ、それを解く鍵が象徴的に隠されているのだ。
http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=116222
「死と再生」と「世界の更新」から観た『タイタニック』考

04:04:03 - entee - TrackBacks