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2009-02-05

《知》と《信仰》の間に横たわると言われる隔たりについて

2009.2.2のメモから

「知の限界」という問題意識は、その後の正統多数派キリスト教会で、グノーシス派の思想が異端派の馬鹿馬鹿しい空想としてまるごと排斥されてしまうため、表だって生産的な形で継承されることはなかった。言い換えれば、「信仰」と「知」が機械的に二者択一的なものとされてしまい、時代は暗黒の中世*に入っていく。(筒井賢治著『グノーシス――古代キリスト教の“異端思想”』p. 214 「結びと結論」より

gnosis

正統派の言う「信仰」の対象...
グノーシス派の指し示そうとした「知」...
これらのヴェクトルが別方向に伸びていったというのが紀元2世紀に起きた最初の悲劇だ。筒井氏のこの「まとめ」ほど簡潔に信仰と知の「対決」の起源を言い切った言葉はないのではなかろうか?

そも、グノーシス派の指し示そうとした「知」とは、何についての知であるのか? この「知」に関する具体的内容は、本書では深く言及されない。せいぜい神話に繰り返し出てくるところの、「罰せられるべき好奇心」についての思わせぶりな言及に留まる。新書のようなこの紙面でそれ以上深く分け入るのはおそらく不可能であろう。

繰り返そう。そも、グノーシス派の指し示そうとした「知」とは、何についての知であるのか? それは超歴史的世界観への観想であって、その事実性への確信である。その確信が「好奇心としての知」の相対性、そして何よりも明らかな危険性を規定したのであり、その「危険性への認識」が「信じること:信仰」の端緒を成した。

だが、現在、「知」は「信仰」への反意語に過ぎず、「信仰」は「知」の限界をして「それ見たことか」と勝ち誇ったように指弾し、《知》を否定する自我として機能するに至っている。一方、「知」は「信仰」の科学的厳密さを欠く不完全さを以て耳を貸すに値しないものとして無視する。だが、これほどの悲喜劇があろうか。

本来、《知》が信仰することの理由を明らかにし、《信仰》が危ない好奇心(知)を戒めるための制動装置(ブレーキ)として機能したにも関わらず、そしてあらゆる終末論を唱える宗教的なるものの本源が、この危機への認識、すなわち、われわれの祖先の最も古い《知》まで遡るものであるにも関わらず...

いまや、それらは相互に否定し合い、軽蔑し合うことで、それぞれが最も離れた方向へと、制御できぬ彼方へと、引き離されていこうとしているのだ。


ここで何度でも反芻されなければならないことは、あらゆる宗教は、古代の人類の引き起こした大災厄からの学びを反映している、という一点である。そしてわれわれにとっての古代とは、われわれにとっての近々の未来と瓜二つであるということである。

もうひとつ明らかにしなければならないことは、「知」は知でも、災厄を引き起こす「好奇心としての知」と、他でもない人類の手によって引き起こされた災厄についての記憶としての《知》のふたつが、区別なく同じ「知」という言葉で伝えられていることである。だが、そのどちらも人間の好奇心によって維持されているという点においては、そして、記憶を伝えようとする使命を帯びた《知》が、宗教のドグマ(教義)化された時に、結局、預言の自己成就性をまさに発揮して、その《知》が知るところの知識が、またしても人類を滅ぼすような性質のものに反転する逆説にさえなるということである。

一方、信仰の方は、信じるか否かというレベルの問題ではなくて、実際にあったことを体験として知っている、という段階から、(われわれにとっての「ヒロシマとナガサキに原爆が落とされた」という事実と同じく)自分の親や祖先たちが知っていたという段階への移行、そして、記憶が薄れるにつれ、「信じなければならない本当にあった話」という段階を経て、「無条件に信仰しなければならない話」と変質するのだ。だが伝えられるべき内容が重大であるほど、それは無条件に受け入れなければならないもの、すなわち信仰の対象となる。この点で、本来の信仰というものが、いかほど《知》と隔てられたものであろうか? いささかの違いもないのである。

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2006-03-08

“伝統”数秘学批判
──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [8]
“3”の時代〜「元型的火曜日」(上)

Oakchest furniture La Trinite Red Fleurs de lys

画像引用先:Image: La Trinit? et tous les saints @ Wikipedia 


■ 「数性3」を語る困難

「3」はとりわけ扱いの難しい数的元型のひとつである。その理由としては、「数性3」に関連した図像が出現する最初の時代のアルカイックさもさることながら、「数性3」の象徴がそもそもわれわれの目に数性を内包したものとして十分に認知されない事情がある。これらの点は、他の多くの数的図像に対する今日の一般的認識と大同小異である。だが、こうした困難に加えて「数的図像」と呼ぶべき象徴物がこの時代を境に一気に開花し始めるために、われわれにとっては、どうしても「語りうることの枝葉が多すぎる」と感じざるを得ないのである。だが、それこそがとりわけ「数性3」に見出される最大の特徴のひとつと言って良かろう。そしてその象徴は「特定の時代」だけを排他的に指し示す象徴物であるのみならず、ほとんどどの時代にも見出されると考えたくなるほどに時代を貫通して顕現する象徴物でもあるため、「時代のエポック」と連動していることについて、容易に理解を得ることが難しいだろう公算も高い。

もうひとつは、図像に内包される数性を認知したとしても、前章でも言及したように特定の数的象徴図像の中に「数性2」と「数性3」の間のどちらとも解釈できるような曖昧さが存在するということである。むろんこうした曖昧さは「意図」されたことであり、それもその数的図像の中に実社会における神学論争的・政治的な対立(ないし対立の未解決)が反映されたとも、時代の過渡期を反映したとも読むことができる。あるいはあるより重要な理由を以て、ふたつの数性をひとつの図像の中に内包させることを意図したケースや可能性があることも否定できない。

これら二つの数的祖型の間に象徴の造形意匠上の、ある種の曖昧さが介在しうるもうひとつの理由として、この二つの数的象徴を採用し世間に顕示したのがいずれも特定の宗教教団(とりわけローマ・カトリック教団、および正教会)であったこと、また図像の具現化の役割を果たしたのが教会の宗教美術家(とりわけキリスト教美術家)であったこととどうしても関係があろう。

議論の現時点で以下のように言い切ることは可能である。すなわち、ユダヤ=キリスト教の表象伝統(秘教的伝統)の中に、ここで語る7つ(8つ)の祖型的な数的図像がほぼ包含されているのだということ。だが、「数性4」の時代以降、その数的象徴図像の相続者(もしくは顕示者)は、教会外へ、すなわち世俗の権力へと移行して行くのだという指摘をここで済ませておくことは、象徴図像の広がりについてすでに宗教領域以外における展開に並々ならぬ注意をすでに払っている他の研究家の誤解をあらかじめ回避しておくためには有益であろう。


■ 「三位一体」

ヨーロッパ史において、「数性3」は「三位一体」という不思議な神学説によって登場する。「三と言えば三位一体」と断定しても良いほどに「3」の象徴は、それを如何に理解するかということに掛かっている。つまり数字そのものの理解に先立つ様々な了解事項の共有が要求されるのである。

最初に誤解を怖れずに言えば、この「三位一体」の教説とは「人の子」としてのイエス(人間としてのイエス)に起きた身体的犠牲を有名無実化する(すなわち「殺害」する)考え方と言ってもよい。これはほとんど「生け贄を二度屠る」行為に等しい。そして主イエスの二度目の殺害によって起こることは、歴史時代的な「十二使徒の時代」に入ったということに符合する。すでに死んでしまっている救世主の「二度目の殺害」によって“2”の時代は終わりを告げるのである。換言して、「人の子」イエスの「神格化」は完成し、ついに「神の子」へと昇格したのだと言うこともできるであろう。

「父と子と精霊」という「三つの存在」が神の顕現であるとする神学論上の結論は、積極的な信仰者にとっても、現代の世俗的知性にとってならなおさら、容易に受け入れられるものではないだろう。とりわけ理性的な頭にとって、ほとんど詭弁であるとしか考えられないような代物と捉えられても不思議はない。もちろんそれへの理解は、大きく分けて顕教的なものと密教的なもののふたつの側面が存在し、また解釈も個々人の理解のレベルに見合った複層的なものとなってしまわざるを得ない。これはある程度仕方がないでことであろう。

だが、ここで一旦、拙論『三本の光(光の三態)について』で論じられた異なる三つの「光」の存在と、それらが全く異なる「資源」に由来するにも関わらず、そのうちのふたつ(地上的な光、および天国的な光)が密接に関連しあってその存在が認知されるという人類史の発展があり、また、それら二つの出会い(再会)を実現するために、「三つ目の光」がわれらが頭上に到来する。この「第三の光」がこの世ならぬものでありながら地上に来臨しうる超地上的な「光」であり、先に述べた二つの光との関係性について大胆な解釈が可能だということをここでもう一度振り返っておかれたい。


■ 回帰の内側にある“3”と回帰の外側にある“3”

「数性3」が他の様々な数と異なり、際立って特殊である理由の一つとして、<超歴史的秩序>そのものを表す記号(コード)としても使われてきたという事情があることを今一度確認しておこう。

横方向に伸びる時間軸が「7進法」(オクターブ原理)とでも呼べるような七つの「目盛り」の物差しを持っていて、ひとつ桁が上がる毎に、それは別の層の始源的時間へと戻る。その時、われわれの祖先が採り続けてきたことは、正確に、<伝統的>な物差しを当てて、前回の周期の範型をのちの「世代」の一部の象徴継承者たちに指し示してきたことである。われわれの祖先らが維持していた<伝統>と<聖なる時間への記憶>とは、まさにそうした周期性に対する強い自覚に伴って生まれてきたものなのであり、「宗教以前」の生き方の作法として機能していたのである。

われわれが「宗教」として現在認識している種類の人間の運動は、そうした世界のあらゆる場所で見出される<根源的伝統>のわずかな名残と言うべきものだと断じても過言ではない*。だが、その範型を通した超歴史的「警告」が、とりわけキリスト教に関しては(例外的に)、その存在理由の意に反して、その繰り返し(回帰)のパターン(範型)を助成してきたようにも見えることがあり、あたかも否定的予言の成就に手を貸す共犯者のようでもある**。予言の自己成就性という宗教の持つひとつの逆説的範型にもなっている。この桁の「繰り上がり」「積み重ね」こそ、縦方向に堆積したいくつもの周回の層を表現するのである。その人類の特性がわれわれにとって普遍的と呼ばれるに相応しい唯一の課題なのである。

* その点にこそ、現在、儒教と呼ばれている「人生哲学」が、一部の知識人達からは宗教の一つと思われていないにも関わらず、断じて他の三大宗教と同じ存在理由という「根」を共有するのである。

** こうした一見矛盾する「救世主」像は、他ならぬ福音書の中に包み隠さず示されている。キリストが必ずしも平和の使者ではないことは、彼自身が告白しているのである。


それはイメージとしては「元カレンダーと第三周の世界」のところでも観てきたように、今回の世界というものが「三度目の正直」であるという「便宜的な約束事」としても「3」という数が機能させられていることとも関連している。仮に(たとえば)12000年をもって一巡する超歴史的周回を「秘教的1エイオン」と呼ぶことにしよう。そして、今回が本当に3回目の秘教的エイオンなのか、いや実は4回目なのかということは、如何に秘教に通暁していても、そればかりはよほど特別な「根拠(ソース)」にアクセスできない限りは言うことは出来ないであろう。加えて、われわれの世界が「“歴史”的事実として何度目なのか」ということは、この際われわれにとって重要なことではあるまい。「“3回”の繰り返し」という修辞上の表現に、われわれの世界が文字通り「3回目」(あるいは「4回目」)であることを読み取って満足することがわれわれの探求の目的ではないことは、幾ら強調してもし過ぎることはない。だが、秘教的伝統が、その<数>に「永遠回帰*」の意味合いを組み込んだことは、われわれの眼には明白である。

ここで扱っている象徴における「数性3」が、この「秘教的1エイオン」という周回の中における「三日目」を取り上げるものである訳だが、われわれの観察する「数性3」の象徴が、本当に周回内の「三日目」を意図しているのか、もっと大きな枠組みであるエイオン自体の「三度目」を指しているのか、というところで「数性」解釈上の混乱が起こるのである(これはある程度意図された「混乱」である可能性も退けるものではない)。

しかし、まさに、それは両方を意味していることもあり得るし、どちらか一方を明確に意味していることもあり得る。いずれにしても、こうした複層的解釈が許される「数性3」に極めて特殊な聖性のニュアンスが込められたことは確かであり、それは極めて広い領野において目撃することが可能である。われわれの世界において数字の「3」が「7」に次いで(というより、互いに補完する形で)<聖数>となっているということは、読み取る側に大いなる混乱を招きながらも、こうした象徴体系そのものが二重三重の意味性を保持させられていることへの注意を促すのに役立っている。

* 「1としての3」「3にして1」という三位一体説を数的に表したものは「三分の一」の数式である。1/3 = 0.3333333333... という「3」を無限に繰り返す循環数となることは象徴的である。「3」が永遠性を表すコードとして使われてきたことは、この辺りに事情があるとわれわれは想像することができる。

23:21:00 - entee - TrackBacks

2006-02-13

“伝統”数秘学批判
──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [5]
“2”の時代〜「元型的月曜日」(前半)

「数性2」の象徴は、現在一つの特定の宗教によって簒奪されている(と言って悪ければ、占有されている)という言い方もできる。その宗教がその数性を多かれ少なかれ「自分たちのものである」と宣言したことには、しかしながら、相当の必然性と理由がある。そしてその数字とそれを表象する体現物(フィニシアン)たる<徴>を独占することによってこそ、その宗教は「世界の宗教」たり得たのである。その徴こそは、その宗教の担わされた元型そのものであり、中核的な存在である。だが、最後には、その宗教がある祖型的イメージを伝達し、その中に厳然として存在する「数性」を伝えることにこそが、中心的役割であったかのようにさえ考えられることが了解されるであろう。宣言は、およそ2000年前に行なわれた。劇的に、誰にでも忘れられない方法によって。

「相当の必然性」と言うのは、その原型的象徴がわれわれすべての者が影響を免れないほどに文明の方向性を決定するだけの強烈さを持っていること、そしてこの世において、ある元型的物語の「再演」に関して、その宗教が担っている(担わされている)ものが、その決定にきわめて重要な役割を演じることを先覚者達は諒解していたからである。

「再演」されるのは、ある男の「死と再生」の受難を「現実に」執り行うことで象徴的に描き出される世界規模の「死と再生」の物語である。そしてその役割は、ある種の自作自演(狂言)、すなわち世間に警告を与えるとともに警告される内容の実現を幇助するというパラドキシカルなものである。そしてその劇にはある<徴>が重要な役割を演じる。それは主人公的登場人物の重要性に次ぐか、もしくはその登場人物以上に重要なある「イメージ」を伝達するための労作であったとさえ言える。だが、死を賭して伝達されるべき価値のある内容であったし、死(そしてそれに引き続いて起きた「再生」)を実現すること自体にドラマの完成の鍵があったために、それは避けることが出来なかった。その後、大いなる勘違いを伴いながらも、「劇的な死」のイメージは、そのままそれを信奉する一群の人々の生き方(人生観・文明観)の元型とも成っていくのである。つまり、「死を賭した」伝達が、現に成功したことによって、その生き方(死に方)は最終的に肯定され、却って「死に向かう」その文明の元型は決定されたのであった。そして「死ぬ」以上、その復活も同時に約束されなければならなかった。そして、それはおそらくかつてそうであったように、死ぬ以上、復活するであろう。

この劇は受難劇 (Passion)と呼ばれる。一方、登場する<徴>は、例えば「愛」と「愛の実現のための死(自己犠牲: sacrifice)」、あるいは「生を超える実在への信仰、ないし絶対的信頼」、言い換えれば「形而上存在への信仰とそれへの殉死」、そして何よりも「忠実: faith」を顕わすものである。さらにそれは同時に紛うことのない数性を発揮する。そして最終的に、それは何よりも「死」、中でもとりわけ「殉教」との濃厚な関連を埋め込まれた「数的象徴」となった。そして、他の目的のために“不信心者”としての他者(異教徒)がその<徴>を恣意的に用い得ないように、徹底して聖別された。聖別の仕方とは、代表格が進んで「生け贄の羊」になることであり、その血を以てその<徴>は、その信者以外が用いることが出来なくなった*。

* こうした聖別は、例えば「水による死と再生のイニシエーション」が、その特定宗教への帰依を表現する「洗礼」の儀式となり占有されたこととも類似関係にある。

脱聖化が進められた今日では、その記号が「数性2」のシニフィアンであることに人々が気付かぬほどに、無意識化(非言語化)された。一方、あらかじめ徹底して聖化されたこの数的象徴の影響力は、この宗教を信仰する者たちにとって未だに特別なものであることは言うまでもないが、彼ら信仰者にとってのみ「意味を放射する」ものではなかった。それほどに強烈な自己成就性を保持した<徴>であったのだった。(宗教の持つこうした象徴は、すべて同様の意味を放射しているのであるため、この宗教においてのみ独自のことではないのであるが。)究極的なまでに単純明快な構造を持ったこの<徴>は、この宗教の信仰者の周囲やその教義や世界観に反論・敵対する者達にとっても重要な意味性を発揮することになる*。そしてその<徴>の意味は、われわれのこの度の世界において、その特定宗教が「記号」の主たる伝達者・提示者となったものの、その活動を通して人類共有の財産となってゆくのである。

* 反論・敵対する者達は、やはりその宗教に対して別の<徴>を持った「宗教」によって対抗した。

もちろん、人間の組織としての宗教団体となったそれは、その徴を掲げた布教家(ミッション)達によってその教えの重要さが流布された。その<徴>は大西洋を渡って新大陸に赴いた布教家の乗った船の帆にも見出されたし、エルサレムの奪還を企図した「聖戦」への参戦を志願をした僧兵の胸当てや楯(シールド)にも見出された。そして現在ならば、肌着の下に密やかに隠されるかのように、信仰者の秘めた心情を表明する小さなネックレスとしても見出されることになる。

[1] Crusador's red-cross shield [2] Crusader's cross & Crescent of Islam

[3] Crusador's Cross Shield [4]Santa Maria of Columbus

画像引用先:
[1] The Grace Collection Web site

[2] World Food Issues: Past and Present

[3] website.lineone.net (The Crusades)

[4] 切手に現れるコロンブスの船(サンタ・マリア号)

「信仰と信仰への殉死」を身を以て提示したその教祖について伝えられた記述の内容からすれば、その後の布教活動や十字軍派遣は、文字通り暴力的と言う他ない結果を周囲諸民族にもたらし、またその<徴>が侵略者の徴として周囲に記憶されたのである。つまり、無条件・無私の愛と自己犠牲を説き、この世ならぬものの実在を示唆し、「人を押しのけてまで現世における生を貫くことにどんな意味があるのか」と問い続けた犠牲的ヒーローの教説とは全く相反する現実を世界にもたらしたと言うこともでき、そのことはきわめて象徴的であり、まさに歴史の皮肉ともいうべき宗教の逆説的がここにはある。

だが、断じてその<徴>は、その教父自らが死んだ場所・原因・方法と結びつけられることによって世界によって記憶された。

その<徴>、十字架は、ひとを磔けて刑死させるための道具の形状として当時の帝国ローマによって採用された。身体構造的には、両手を水平に伸ばし、胸を開き、直立するその姿勢は、無抵抗の徴であり、身内や仲間を身を呈して守ると同時に、自己犠牲への用意を進んで示す象徴的体勢でもある。

かくして、原初の世界において<一本の棒>であった祖型的数性は、「両腕」を水平に伸長させたことで、分裂・成長し<二本の棒>となった。二本の棒によって描かれる最も単純な幾何学図像は「十文字」である。十字架はたった2本の棒を組み合わせることで出来上がる縦軸と横軸の「二次元」的な広がりを作り出し祖型的ドラマの始まり(再開)を告げる「人類史」の最初の契機である。すなわち「終わり」を伴う「始まり」のサインである。

[1] Jesus on the Cross [2] Romesey Crucifixion
St. George church of Mravaldzali, 11c.
画像引用先:[1] 「グルジアの美術と文化: Georgian Art & Culture」より
[2] Clint Albertson, SJ: England's Norman Romanesque Churchesより


だが、この<徴>が今日、疑いなくキリスト教的なシンボル(ロゴマーク)であることを認定した上でも、この<徴>は彼らが初めて着想したものでなく、今回の歴史における本格的採用に先立って存在した秘教的知識を裏付けるものである事実に変わりはないのである。

その証拠の一つは、数的象徴物が三度反復され配列されることにも求められる。民衆が見上げることのできる象徴的舞台である「ゴルゴタの丘」において磔刑に遭ったのはイエスひとりではなかった。彼は他のふたりの「罪人*」と供に三人で、木でできた十字の象徴物の上に、その身体を以て、文字通り「十字状の体勢」で、世界の頂点において高く掲げられなければならなかった。その丘の上に顕現されたこの象徴的図像は、この歴史の中で、「222」という数字の配列をこれ以外にないというほど完璧且つ露骨な形で世界に提示したものであった。

したがって、イエスが盗賊の聖ディスマスとゲスタスと共に磔刑に遭ったことは、象徴の要請する形状の実現の意味があったのである。ここで、イエス自身の登場や、こうしたイエス磔刑のイベントが歴史的に実在した事件であったかどうかは、この際重要ではない。そのような形でそれが行われたという記述と、それを信じた一群の信仰者の存在と、それが世界宗教へと格上げされていったという歴史的事実こそが重要なのである。

[1] Golgotha three crosses 222
[2] Celtic Cross Tatoo 222

[3] Les Argonautes

もう一つのCG画像。欧州人を魅了する普遍的図像。

* 「ニコデモの福音書」という新約聖書外典(12世紀頃)は、共に磔刑に遭いながらも十字架上で改心する方を聖ディスマス(St Dismas, St Dysmas)、十字架上でイエスを嘲弄する方をゲスタス(Gestas, Gesmas)と命名している。ADAGO用語集より)

画像引用先:
[1] LIVING WATERS

[2] Top Tattoo Designs: ケルトの十字架を利用した入れ墨絵柄

[3] Lorenzo Costa (1460c.-1535)による"Les Argonautes"
ギリシア神話のアルゴノートの冒険逸話を絵画にしたものであるが、<50人>の英雄的な冒険者達のこの神話に、サンタ・マリア号に乗って西方行路発見へと出帆したコロンブスの航海をダブらせているものと推察される。キリスト教絵画でないので、帆にあからさまな「十字架」は見出されないものの、支柱自体が十字になっており、それが3本並ぶ図像範型を示している。また極端なデフォルメのために「三日月」状の舟の上に3本の十字架が打ち建てられているように見える。これは、黙示録に登場する聖マリアと解釈される女のイメージを踏まえているものと思われる。そして残りの2つに比べてやや大き目の中央の十字の支柱の上では、光輝が放たれている。その支柱に巻き付けてある縄による滑り止めの「足掛かり」の数は13段になっている。これももちろん偶然ではない。


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2006-01-24

ホリエレジー「逃した魚は酸っぱい?」

昨夕、ホ○エモンという愛称でひろく親しまれている「若手アントレプレナー」の保持する会社で粉飾決算があったとか証券取引法違反があったとかで逮捕されたという報道があった。自分に関係ある話題と思っていなかったが、さまざまな評価があって、その中でも普段から比較的共感し信頼もしている批評家のふたりが、かなり辛辣なトーンで彼について書いていたので、ちょっと思ったことを書いてみる。実は、話はこの「若手アントレプレナー」の話ではない。「われわれが人を評価・判定できる立ち場にあるのか」という話だから、する価値があるのだ。

信頼する批評家の一人、内田樹氏は、<素知らぬ顔で一歩だけ「出し抜く」ものが巨利を得るというこの投資のスタイルは、構造的には大衆社会にジャストフィットのもの>と言い、人を騙す(そこまで言わぬまでも「出し抜く」)ことが投資で儲けるための前提である株式市場などというものに関わる種類の人間がそもそもつまらぬし、そんな大衆とは自分は関係ない、と言っているようにも聞こえる。これについては実は概ね賛同する... と言うか、そういう投機的なことに自分はそもそも不得手だし、賭け事は「負け」と決まっている、そして何よりも賭け事に勝つために熱心に普段から調べものをしたり刻々と変わるデータに目を光らせたりと言うことが出来るほどヒマもないから自分は手を出さないというのが、深層の真相だ。(だいたい本当にこの世界で儲けられる人はそもそもインサイダーぎりぎりの情報へのアクセス者と相場が決まっているんじゃないの?)

そして、<「みんな」と歩調を合わせないといけないようなことなら、私はやりたくない>ということも生来の天の邪鬼たる自分も言ったりするだろうが、それはむしろ自分にとっては後付けの理由だということにも自覚がある。そもそも「金を法外に稼ぐ」(儲ける)ことに対して魅力がない訳ではない。使い切れないような額の金を儲けることには何の魅力も感じないが、使うアテ(目的)があるならば、ある程度の額のお金というものには魅力があるのだ。その点で言えば、要するにホ○エモンに出来て自分に出来ないことに関して、口惜しいから、その届かない葡萄を指して「あの葡萄は酸っぱい」と言っているだけなのだとも言える。それを言うなら、ゴタクを並べているうちに「逃した魚は大きい」かもしれないよ。だが、結局のところ自分の仲間を可能な限り共感せしめるような「あの葡萄は酸っぱい」「逃した魚はこんなに小さい」というゴタクをどれだけうまく並べられるかなのだ、リクツというものは。共感を得られればとりあえず論争上は「勝ち」である。内田氏もそんなことは百も承知だろう。

ひとつ内田氏の文章の中で<誰が聴いてもあれは「詐欺師の声」である>と語っていることについては、本当にそう思っていたのかもしれないが、ライブドアが証券取引法違反で強制捜査を受ける前にそれを言っていれば、それは随分多くの人を「救った」ことだろうと思う。むろん、内田樹という予言者の話を信じて「他を出し抜」いた上でライブドアという危険な話からも離脱するということなので、それもひとつの「大衆社会にジャストフィットした」よりスマートで信頼できそうなコメンテーターに耳を貸すと言う立派な競争なのではある(こちらを信じる方がやや賢明そうには見える)。莫大な株券が紙くずになる前に「アイツは詐欺師だから手を出すな、既に手を出しているなら今のうちに手を引け」というようなアドバイスは、きちんと「人を出し抜く」タイミングで言ってこそ役に立つのである。

どんな詐欺師でも人を騙し続けて勝ち続け、騙された人間も騙されたまま儲けて、そのままみんなで墓場までいけば、その詐欺師は「生涯、詐欺師ではなかった」ことになり、タイホされない詐欺師は、商才あるカリスマであったことになる。生きている間に逮捕されれば「バカなヤツ」と言われ「ドジな奴」と「詐欺師」とまで言われるのである。つまりそんな「評価」は結果至上主義・成果主義なのであって、自分自身が本当に詐欺師(予想屋)の後ろ指を指されたくなかったら、後から「あいつは詐欺だと思っていた」という言い方しか成立しない。ということは、結局はそんなのは何の役にも立たない「後出し予言」なのである。

「後出し予言」と言えば、もうひとりの信頼すべき論述家の言葉だが、「やはり躓いたホリエモン」というような言い方があった。が、実はこれも別の意味で五十歩百歩である。確かにその人が強制捜査や逮捕の前から「ホリエモンは危うい」と言っていたらしいので、確かに「後出し」ではないかもしれない。だが、その評価の仕方にはどこか「躓いてくれて嬉しい/予言が当たって嬉しい」という予言者(予想屋)特有の成就期待のニュアンスさえも感じられる。むろん穿ち過ぎなのは自覚の上でだ。
[予言の自己成就がらみの記述]

予言をする人は、それが当たると自分の評価が上がるので「当たると(だいたい)嬉しい」のである。これについては内田樹氏自身もよく言っている。批評家や評論家が予想や予言をするだけならまだ良い。だが、今回のことを「やはり躓いた」と思わず言ってしまう種類の人々、すなわち彼に対する特定の評価(「裁き」と言っても良い)をすでに抱いている人々が、彼が逮捕されるような方向に政治力を作用させたり、裁きの地所へと彼が赴くようにその実現を幇助する場合があることについては別問題である。つまり「ほらやっぱり、アイツは躓くようなヤツだ」という言い方は、「躓いて欲しい」という希望──つまり「躓いたら面白いだろうな」というような世俗人特有のやや消極的な期待から「躓くべきだ」というほとんど確信的(狂信的)とも呼ぶべき積極的な道徳理念の実現の期待までの、どれか──を同時に抱いているため、「やはり○○だ」と言う人物は、すでに評価者/裁定者としては適任ではないのだ。

ということは彼についての評価も裁判も、彼が「裁かれて然るべきだ」「失敗して然るべきだ」という自己の内部に厳然とある「価値観」や「バイアス」を意識しないでそれを行なうだろうから、まず公正なものにはならない。つまりホ○エモンを気に入らなかった者ばかりが裁く立ち場にあるとしたら、裁かれる者が公正にジャッジされる見込みは少ないのだ。

そして、見せられる範囲で「世間の見たい」ものを実現して見せるのが権力者であるから、「躓いたら面白いだろうな」という成功者の不幸を喜ぶ多くの無自覚な心理は、それを十二分に楽しむことになるだろう。中世の時代から火炙りなどの魔女狩りに伴う儀式は、わくわくするお祭り騒ぎのイベントだった。世間が自分の欲望に無自覚である時、そして自分はキチンとルールを守っているという意識が強い場合、他人への「裁き」はもっとも苛烈に下されるのである。

もっとも、「味方に付く者がいないほど多く敵を作った事自体が、彼の愚かさそのものだ」と言うなら(おそらくそれはそうなのだろう)、それはある程度は仕方がないのかもしれない。しかし、多くの人が悪く思う中での大多数の論理というものが、常に正しいなら人類はここまで来なかった。不幸なことに少数を圧する多数派が、総じて間違っているということも歴史上あった。皆がケシカランと思い、誰もがそれに反証がないように思え、そうなるのは仕方がないと思う時に、皆の目に見えて信じられることの全く逆の、驚くような意図や逆説的な真相が水面下で動いていることがある。したがって、独りの人間の愚かさに今回の出来事の全てを帰するような簡単な納得や思考停止で終えていいような話とも思えないのである。

彼に対して、一切の固定観念もなければ利害関係にもない人間、しかも自分の価値観やバイアスを十分に自覚した上で、それと「裁き」を分けて考えられる人間だけが、真の評価を可能とする。そして、彼という人間が彼自身の欲望の追求だけでなく、「社会におけるどのような理念実現を助けてしまったのか」を観ることなしには、とても公正な判定は実現しないだろう。特定の人々のしがみついていたい道徳律とは無関係な「どのような役割を社会全体において演じたのか」ということが評価されてこそ、彼の一見した「愚かさ」がどのような被害を周囲にもたらし得、最終的に誰を利することになるのかを理解できるのだと思う。


PS1
ああゆう「傲慢な感じ」の金の亡者を私が好きなはずがないのだが、こうも寄ってたかって叩く人が多いと、またしても「ちょっと待てよ」と自分の中のブレーキが働くのである。シンパシーを持っているというのとも違う。だいたい今回の件が、政治的文脈を無視して評価できるはずもないし、政治的文脈と言えば、このことが日米関係、と言うよりアメリカ合州国の国益や外交政策と無関係であったとも思えず、その辺り全体を見渡すことが出来る人間だけが、ホ○エモンという人間の存在の意味を「正しく評価」できるはずなのである。

PS2
ホ○エモン氏にシンパシーを感じる人がいるのが信じられないと言って憚らない世代や潔癖者の方々も多いだろう。だが、上に書かれたような理由を以て自覚的に彼を支持する、ないし同情する人が出てくる、ということも理解しうることなのである。これは「想像を絶した」話ではまったくないのだ。


13:22:27 - entee - TrackBacks

2005-08-09

郵政民営化と「テロ」

組員(国民)の最低限の安全と生活を保証するのが「ヤクザの親分」としての権力の役割だとすれば、組員を世間の厳しい競争原理に晒すことは、親分としての義務の放棄である。親分が、「もっと大きなマフィアが海外から攻めてくる。悪いが自分たちだけでなんとか生きていってくれ」と言い、それだけならまだしも、これまで組員が苦労して集めた資金を「攻めて来るマフィアに渡すが文句を言うな」と言えば、それは詐欺も同然の無責任/腰砕けなのである。そんな親分はさっさと首を取った方がいい。たとえ話だが、日本国政府による郵政民営化というのは、要するにそういう「親分」たる権力家の義務放棄に相当する。

自由主義経済の競争原理が必ずしも生活する人の「ため」にならないことは、すでにカリフォルニアでの電力の自由化ほか諸々の例によっても証明済みである。カ州においては電気の供給が滞ったのである。そのようなことは、郵政の民営化によって今後起こってくる。しかし、郵政三事業民営化というのはそのような「民間でできることは民間で」というようなことだけで収まらない問題を含んでいる。国の権威を利用したシステムによってこれまでに築き上げた(吸い上げて来た)国民の生活資金の保護という義務を、今度は国の都合によってそうやすやすと放棄していいのか、という議論に尽きるのである。「民営化による小さな政府の実現」など差し障りのいいコピーに過ぎず、状況が変われば幾らでも「大きな政府」へ舵取りを変えることを厭わない連中である。信用してはいけない。「小さな政府の実現」など、本気で考えているはずがない。

これまでの亀井静香氏の恫喝的な物言いなどイケ好かない部分も多々あるものの、今回の郵政三事業民営化法案への反対表明に限っては終始一貫した論理と呼べるものがあった。そして、今回のこの法案の持っている意味の核心を突いた意見を直截に述べている。

「350兆の膨大な国民資産を昨年12月のアメリカ国務省の郵政民営化を求める対日要求に応え、民間金融機関に流れ込むようにして外資が圧倒的にこれを飲み込んでいった場合、日本経済に与える影響は決定的にマイナスである。」

ここで書かれているように、郵政三事業民営化の計画など、竹中平蔵郵政民営化担当大臣を始めとする、アメリカからの「対日要求」に応えようという「属国の典型的な考え」にのっとったものに過ぎない。国民のなけなしの金を危険に曝すことが「国益」と言うなら、その根拠を隠し立てせずに国民に問うべきなのだ。それが「日本の安全保障」のために必要だと本当に信じているのなら、一体どのような恫喝を日本国政府が受けているのかを公開すべきである。その上で、日本が依然として属国であることが良いという国民の総意を得るならば、それが日本人の生きる道ということだ。

郵政民営化は、「民間でできることは民間で」という、まったく説明責任も果たさず、論理的でもなく、単にスローガンを繰り返すだけの、将来に禍根を残す悪法であって、実現されてはならない、そして阻止可能な「国家の過失」である。この法案自体は、単なる「郵便」事業の民営化というものとは全く異なる意味を持っている。これは国民のひとりひとりに大きな影響を持つという意味で、「国鉄の民営化」よりも、また別の、破格に大きな意味を持っているとさえ言えるかもしれない。

「郵便局」などの事業の民営化では「サービスを受けられなくなる地方が出てくるからダメだ」とか、「そんな地方無視はあり得ない」、とか「そういう不便が起こらない方策が民営化の方法の中にはある」いうような窓口業務についての争点で語られがちだが、その議論は、その法案の更に大きな目的を曖昧にする隠れ蓑に過ぎず、その法案の核心とは、日本人が働いて貯めてきた「お金」のリスク化ということに尽きる。

「郵便貯金が安全でなくなったら、預金を別の銀行に移せばいい」というような呑気な話ではない。他の銀行は、もっと早い時点で「リスク化」されているのだ。「ペイオフ解禁」という訳の分からない名称によって。つまり、金融機関に預けられているわれわれの「生存のために必要なお金」は、誰からも守られないということである。すなわち、リスクは郵便貯金でも同じであるということを決定付けるのが郵政事業の民営化の「本質的意味」である。

その辺りをまるで了解せずに、「自民党の票田を解体する意味がある」とか、そういう政局的な意味合いだけで民営化に賛成する「リベラル派」が一部にはおられるようだが、それは民営化のひとつの側面ではあっても、本質を無視した主張に過ぎない。

これは、実に最初から最後まで「お金のはなし」なのである。そして、それは全世界を見渡してみてもそのような額の資金源(350兆円)は、もはや地球の表面のどこにも見出すことの出来ないような、ハイパー超高額の「現金のプール」なのである。それが、それを稼いだ人々のために保存されるのではなくて、その国を力で支配している宗主国への貢ぎ物として恭しく献上されるということなのだ。他ならぬ親方日の丸によって。

その金が「自由化」されて売買の対象となること(日本人にとってはリスク化される)をアメリカの金持ちたちは、首を長くして待っている。喉から手が出るほど欲しいのである。この現金が「自由化」されたら、確かに日本はもう一度世界にバブルを起こすかもしれない。だが、そのことは、日本人をこれまでより自由にしたり豊かにすることはない。失われた老後の資金を再び稼ぎ出すため(つまり生き残るため)に、日本人はこれまで以上に奴隷のような長時間労働を強いられることになる。我々の将来は、「資金」という名の「数字」となり、投機の対象となり、売買されることになるのだ。そして、売った者はそれをもう買い戻すことは出来ない仕組みになっている。

したがって、外国の禿鷹たちがその「魅力的な投資対象」の確保が出来なくなるかもしれないとなるや、それを狙っている連中は手段を選ばない方法に訴えて、結局それを手に入れようとするだろう。その手段とは東京での「テロ」である。彼らを我々と同じような人間と考えてはならない。

それが9.11の参院選挙の前(直前)に起これば、危機管理体制の重要性を訴える現連立与党が、「郵政民営化選挙」を雪崩式に勝利してしまう可能性がある。一発の「テロ」が、民営化選挙を「テロとの戦い」という文脈にすり替えてしまう。そして、結局「郵政民営化」も実現してしまう。東京での「若干の犠牲」という人命やインフラ破壊という「トークン」を支払うことで、現与党は「宗主国」への献上金の自由な扱いを勝ち取ってしまうことになる。そのとき、そうした「テロ」が誰によって引き起こされるのかを考えてみるが良い。

もちろん一番いいことは、このような暴力沙汰(テロ騒動)は起こらずに、しかも現与党が野に下って、当面郵政民営化は出来なくなること、である。しかし、小泉にどうしてあれほどの自信と「据わった腹」があるのかと考えると、そうした「ウルトラC」の存在を視野に入れているからか、と勘ぐりたくもなる。

もし「テロ」が起きてしまったら、郵政民営化だけでなく、他のもっと最悪のことも同時に実現してしまう可能性がある。もちろんその「テロ」が、日本人の政財界における「訳の分かった人々」にとって、「金の亡者」からの明確な「脅しのサイン」としての意味を持ったとしても、「テロ」自体は、一般民衆からそのように了解されることは、ほぼ間違いなく、ない。それはイラク戦争に自衛隊を送っている日本国政府への「イスラム過激派による警告」と解釈されるだろうし、あるいは最悪の場合、「北の工作員」による日本の中枢の破壊活動と体よく解釈されるかもしれない。そのどちらに転んだとしても、「犯人」らしき人が捕まるか「自爆死」が確認され、それから急速に用意される「テロ対策」を、日本をより悪い状態(言いたいことを喋れない状況)に持っていくための口実に使うに違いない。一発の爆弾の炸裂がわれわれを不自由のどん底に突き落とす。

しかし、もし万が一こうした悲劇的な一撃が起こったとしたら、忘れてはいけないが、それはイスラムの聖戦でも「北の破壊工作」でもなく、われわれに笑顔でDMを送ってくる連中のためであり、言い換えればそれは「金のため」なのである。しかも莫大な。グロテスクな話である。人間は金に目がくらめば人をも殺すのだ。それは要するに平和な街角を舞台に突然起こる戦争なのである。

郵政民営化が実現してもしなくても、その後に待っている日本人の運命を考えると暗然とならざるを得ない。

これは、予言ではない。予言にはその的中を望む自己成就性の罠がある。しかし、「テロ」がこのタイミングで起こるとしたら、その事件によって誰が利益を得るのか、誰にその動機があるのかを推量するだけの想像力を皆が抱き、それを言語化して声高に叫べば、その計画の断念につながる可能性はある。「郵政民営化」も「テロ」も、そのどちらもが実現しないに越したことはないのである。それは何度繰り返しても多すぎることはない。

▼ 郵政事業民営化についての関連記述
日本の「民度の高さ」に乾杯!

日本の政治を分かりやすくする




19:39:00 - entee - TrackBacks

2005-05-23

「弾圧」を実体化させるな!

例えばさぁ、の話である。

誰かが「理想の地」を海外に見出し、ある種の芸術活動をしようとして、最初は同地に合法な手段で入国し、その後、ビザの効力が何らかの理由で切れてしまうとしよう。(海外に生活基盤を求める人が増えている以上、このようなことは世界中のあちこちに起こっていても不思議はない事態である。)しばらくは出入国管理所のチェックもなく、問題もなく経過していたとして、ある日、何らかの詰まらない理由で「不法滞在」が当局側にバレてしまうとしよう。そして、やがては強制的な国外退去命令が下る。これは、政治亡命や難民でない限り、芸術をやろうと、ある種の文化活動をやろうと、ビジネスで一旗揚げようと、どんな理由で同国に渡ったかによらず、それは単なる「個人的な法的な手続き上の問題である」と言える。

そこでだ。単なる個人的な「法的手続きミス」なのに、それによって生じたトラブルに過剰反応して、周りがその問題を「文化弾圧だ」と騒ぎ立てるとする。すると、どうなるか。それは、単なる個人的な「事故」や「判断ミス」であったかもしれないのに、そのことは「文化弾圧」であるというコンテクストで読み返され、再解釈されることになり、それは「社会的な事件」となる。

「起きた現実」と「人間のこころが成す解釈」の間にギャップが起こる。あちらでもこちらでも起こる。そしてその際、「解釈」はおそらく渡航した本人の出身地と本人を受け入れてきた当地の両方で、あるいは立場の違いによって、さまざまなギャップの諸相を見せることになる。だが、十分に意識を向けなければならないのは、「文化弾圧である」と考えたい人々の思う通りに、結果として、その問題が「現実化していく」という可能性についてである。つまり、「予言の自己成就性」のように、「事象」の方が主張する解釈の方に近寄っていく、という主客の顛倒が起こる。

すなわち、その「個人的ミス」が「大きなミス」へと発展する可能性がある。

そうなったとしたら、海外における文化活動の実践基盤を守ろうとする側にとっても、政権当局者の側にとっても、どちらにとっても不幸な結果が待っている可能性があるのだ。

つまり、ある特定の政治活動家の反対運動が、「○○の自由を守れ」とコールすることで、権力側に「本当の弾圧」をするきっかけ(口実)を与えてしまうということである。権力者側だって、人間の集まりである以上、「あらぬ腹の内」を探られれば感情的にも反応するし、一旦感情的にある特定の集団を視るということになれば、彼らも自己保身の論理で動いているのであるから、「火の手」が大きくならないうちに、「弾圧」を強化して、もともとはありもしなかったその「運動」を抑えようとするかもしれない。最初はどこにも問題はなかったのにも関わらずだ。そうすれば、運動をする側からしても「それ見たことか、これが権力の正体だ」と一層の運動の激化を呼びかけるかもしれない。そして、弾圧する側はその力をさらに高める。これを「意地の張り合い」と呼ぶ。

それは、果たして芸術活動をしようとして実際に他国へ渡った表現者当人の立場をよくすることなのだろうか? 渡った表現者自身が政治活動を展開するために、意図的に「ビザが切れて不法滞在する」ことを計った、とでも言うのだろうか。それは十中八九違う。彼/彼女にとっては、今まで通りにその国に滞在できて、好きな表現活動を続けられて、その地で見つけた友人知人たちと楽しくやっていくこと、だろうと私は容易に想像する。

政治権力に関わる問題とは、もちろんあちこちに存在する。だが、なんでもかでも「それ」であるとラディカルに反応することが、どういう結果をもたらすのか、ということまでクールに想像する知力が必要なのではないか。

たとえば、果たして、このことを「政治問題」として読み替えることが、渦中の人自身の福利になるのかどうか、あるいは、今後その地で表現活動をしたいと思っているわれわれ自身の福利になるのかどうか、そこまで考える視点、つまり「闘争せずに勝利を得る」という視点と戦略とを十二分に吟味しているだろうか。こうしたこと一切を、あらためて熟考する必要がある。

フルスケールの「政治闘争」となって得をするのが誰なのか、そして、誰が一番貧乏くじを引くのか、考えてから行動したい。保守的に響く発言だが、今は「その渦中にいる人」がどのようにしてそのトラブルから離脱できるのかを優先して行動する(あるいは、行動せざる)べきではないだろうか。ここはひとつ新たなニュースが来るまで黙って見ている、というのが良い。(という自分が、こんなものを書いた矛盾には、どうか皆さん目をつぶって下され。)

まったくもって、抽象的な「例えば」の話なんだよね、これは。



20:39:00 - entee - TrackBacks

2005-04-19

預言に「自己成就性」の回避を組み込めるか

ある事態の潜在的危機(とくに軍事や外交問題)について警鐘を鳴らす専門家が、知らず知らずに予想された「その事態」が起こることを切望し、引いてはそれが起こることに加担してしまうというディレンマについて、「テンポラリー専門家」になった人物が自分の体験をもとに証言をしている。「ためらいの倫理学」の内田樹氏は、似たようなことを既にどこかで述べておられるが、それを自ら実感を持って体験したと今回blogにおいて書いているのである(「中国の狼少年」)。

自分には、これが「○○が起こるかもしれないぞ〜」と警告する学者や預言者の言葉や、その警告者の存在自体が、その予言の成就の片棒を担いでしまうという、まさに予言の自己成就について書いているようにも思えた。これについては、我が身の言葉の在り方を振り返ると同時に、自分は、何らかの専門から局外者の立場であるという、言わば「寄港地を持たぬ船」、あるいは「あらゆるフィールドからアマチュアである」という生き方へも想いが馳せられた。

実際問題、内田氏が指摘するまでもなく、専門家的発言というものの持っている危険性や、専門家自身が自己の論理正当性を明かすのに、それの「成就すること」が、もっとも手っ取り早くしかも効果的であるわけだが、そうした自己陥穽に自覚的な専門家というのも、実は少ないと思うのだ。

特に、「○○が起こるぞ〜」式の警告的トーンの本を何ダースも書いているような小説家や経済批評家や政治評論家や軍事評論家という人種の中には、自己の役割のこうした側面というのに無自覚ではないか、と思われるフシが多々ある。中には、如何に自分の予言がこれまで多く的中してきたか、ということを誇ってやまない物書きもいる。むしろ、その予言が当たらなかったことの方が、本当は「目出度いこと」のはずであるにも関わらず、どれだけ自分の予言が当たったかということを夢中になって誇示する訳である。そうなってくると、この人は、世の中がそうした事態を回避することを喜ぶのではなく、悪くなっていくことにこそ快感を感じ、ほくそ笑んでいるようにも思えてくるのだ。そして、何よりも、そうした物書きはその本をより沢山売ることができる。「あの人の占いはよく当たる」というような評価を以て。

だから、「頼むから当たらないでくれ!」という悲痛な願いの聞こえてくるような予言にこそ、私は敬意を表する。あるいは、どうしたら、その悪い事態が回避される得るのか、という提言を多く含んだ「予言」にこそ、本当は価値があると、言った方がおそらく正しい。いや、予言そのものが、決して成されなければ良かったという視点さえあるのだ。ある局面で、やはり「口は災いの元」ということだ。だが、それは未来予想についてに限った話だ。

また、専門家自身の持っている知識自体が、特権的なものであるという専門職から客観的立場に立てる門外漢(アマチュア)による、批判がつねに意味をなすのだ(と、またアマチュア礼賛をして、終わってしまうのだった)。
21:04:06 - entee - TrackBacks