entee memo

静かであることの「強制力」と「音への愛」
あるいは「即興演奏」という名の別領域への扉

ある種のセッションでは起こりうる(起こりがち?)ことだが、絶対に特定のメンバーが全体の中から「突出」することを許さないような「静けさ」をもった集団即興というものがある。あるいは息ができないような緊張感を伴う静寂というものがある。だが、昨日のそれは、ある意味で「厳しさを伴った愛」のようなものであった。あるいは愛が基盤としてある厳しさとでもいうものであろうか。しかし、その「厳しさ」は、われわれに十分に息継ぎをさせるものであったし、演奏態度を通して共演者に暗黙に伝えられたものであった。そして奔放な「愛」は、紡ぎ出された一つ一つの音自体の襞の奥へと向かう。そしてその音を聞き逃さず、慈しみ愛することが演奏者相互の尊重と敬愛へとつながって行くのだ。

これが、日曜日に行ったCarl Bergstroem-Nielsen(カール・ベアストレム=ニールセン)氏との「インフォーマルな即興セッション」であった。

参加者:
カール・ベアストレム=ニールセン French horn, 鍵盤ハーモニカ、prepared harmonica, voice, etc.
池上秀夫 bass, voice、モリシゲヤスムネ cello、そして自分 voice, oboe, English horn, piano
場所:荻窪グッドマン

思えば、私はそもそもいわゆる「爆音系」の即興には縁がなく、あまり関わってこなかったが、それでも今までは身体的には比較的「厳しい(激しい)」ことを中心にやって来たものだと思い返された。カールさんの即興スタイルは、そういう「ギリギリの淵」で演るような即興でない「即興」という別側面がこの世にあるのだ、ということを(考えてみれば当たり前なのだが)改めて知らしめてくれるものであったように思われるのである。

カールさんとの即興セッションは、その点、「静か」ではありながら「凍り付くような緊張」というのからも、ほど遠いものだ。静かであり、しかも優しい持続力なのである。そして、長過ぎず短すぎずの各セット。私にとっては、音楽というもののあり得る形のひとつを、図らずも「療法系の即興者」から教わったという感じがしたのだったのだ。繋ぎ目なく複数の楽器をふわふわと渡り歩いて行く彼の演奏のスタイルも、一つの楽器でやれることの「限界」を追究し自分を追い込む、というようなストイックで求道者的なものではなく、あくまでも無理なく、ひたすら自在に、花から花に移り渡って行く蝶のように演奏して行くのだ。

自分のやれることや自分の身体が要求する即興のスタイルというものは、そう簡単に御破算になるものではない。当然の事ながら即興にもいろいろな方法がある。演奏者は、大なり小なり結局自分に一番あったスタイルというものに逢着するだろうし、あるいは自分にあった気質の人間同士がグループとして集まるのである。しかし、自分は、異世界からやってきたカールさんとのセッションを通して、自分が主たるテーマとして追求してこなかった即興のフィールドというのが、わずかに開けられている扉から見えるひろい田園風景のように見えた気がしたのだ。

彼とのセッションを終えたら自宅に招待し、ワインを飲みながらの食事会となったが、その際も、カールさんも自分にとって未知なるものへの純粋な好奇心のアンテナがずっと動き続けているのが分かった。私たちはおそらく彼の知らないものを見せた(聞かせた)のだし、彼は私たちの知らないものを控えめに見せたのだ。それは、「この音を聴け!」と迫って来る「物量」や「音圧」を通してではなくて、主に「このか細い声から言葉を拾って欲しい」と控えめに置かれる音の「肌合い」から声を掬いとってもらおうとでもしているように、少なくとも私の追求して来た方向性とは明らかに異質なものだ。それを「自分の形式」と異なるもの、として退ける事は簡単なのだが、そうしない者にだけもたらされるギフトというものがそこにはある。

「音楽療法: music therapy」におけるある種の「セッション」というのは、数年前に「音楽療法」の世界に一時的に足を突っ込んでいたある近しい友人から、その概要を見せられたり聞かされたりした事があったので、なんとなく知っているような気がしていたが、カールさんを通して、ある種の効能のようなものを自分は遅ればせに部分的に体感したのではないか、と思われた。

デンマークの大学で音楽療法士を育てるクラスを持ち、ご本人も「療法」を必要としている「クライアント」相手に音楽療法を実践しているカールさんの立場から推し量れば、セッションをやる相手が「音楽家」(音楽専門家/即興演奏者)であるかどうかというのを、良くも悪くも一旦白紙にして先入観なしに接しようとしているようであり、したがって一律にクライアントの類として「診られて」いる面もあるのかな、などと邪推してしまう瞬間もあった。その点で、正直、ややある種の「居心地の悪さ」を感じたのだが、逆に、私が「どのようにホルンを吹くに至ったのか」を尋ねた時に(要するに、プロのホルン奏者としてのキャリアがあるのかを私が思わず聞き出そうとしてしまった時に)彼が感じたかもしれない居心地の悪さを今は想像しているのである。何故なら、それは療法家としては出ないだろう種類の質問、つまり「音楽家」の立場を取る人間からこそ出がちな典型的な質問の類だっただろうからだ。

しかし、そうした互いの互いを推し量る居心地の悪さは、セッションの録音を聴き返したり歓談を通してほとんど雲散した。即興を日常的に実践しているという自負のある私(たち)には、こうした講義者と受講者の間にありがちな関係の中での出会いはやや不利であったかもしれないが、それは時間が容易に解決する事であろうと思う。

今度再会する時にどのような展開になるかが今から楽しみである。

また、今回の件ではカールさんを紹介してくれた岡部春彦さん、そして大いなる心砕きと気遣いを発揮して下さった池上秀夫さんには、大感謝である。


もうひとつ。カールさんは実はCagean(ジョン・ケイジ信奉者/愛好者:勝手な造語)であったのだ! ケイジを語る時、彼は本当に生き生きとしていて、私が詰まらない「情報知」で彼の言葉を遮った時、明白な「熱い」苛立ちを表情を顔に見せたのだった。

さらにもうひとつ。カールさんは「地下鉄」が好きなのであった。


posted at 23:15:25 on 2005-07-11 by entee - Category: 音を捉えようとする言葉 TrackBacks

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