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「直列ではない 並列に」4人の女優の配置を考える
(映画『またの日の知華』を観る)

とまあ、映画に到達するまでが一苦労。日曜日にまた気を取り直して新宿のシネマスクエアとうきゅうへ。2日連続で新宿の、しかも歌舞伎町に出向くとは。

原一男という監督は、『ゆきゆきて、神軍』で有名だそうだが、自分が見たことがあるのはケーブルテレビでやっていた「全身小説家」のみ。映画監督というよりは、ドキュメンタリー映像作家というような印象がある。個人的に文学の世界に親しんでいないので、正直言うと「全身小説家」も自分に直接深い関係があるものとはあまり感じられなかったが、今回の「またの日の知華」も全体としては似たような印象。

連れ合いが感じ入っているところで、あまり否定的な評を下すのは楽ではない。だが、これはあくまでも自分の感じたことであって、人がどう思うかということとはこの際関係がないし、自分がそう思っていることでこの作品の価値がどうこうされるわけでもない。

さて、一人の女性を異なる4人の女優が演じるというのは着想は確かに面白い。ギミック以上の何かであって、そこには真剣な映画作家による実験的試みがあるのは認めても良い。まさに、女性がその時付き合っている男性によってまったく違った人物として見られる(捉えられる)というその視点に共感しないではない。だが、そう言っちゃあ身も蓋もないかもしれないが、男性だってその時々に付き合っている女性によっていくらでも変わるのだ。男性にとってもたったひとりの女性の出現が未知の人間性の開拓につながることにもなるし、本人にとっては人生を「深める」のにも「広げる」のにも大いに役立つことである。したがって、それは女性に特有なことだという印象を固定化させることには反対だ。(もちろん、監督がそれを意図したと言いたい訳ではないが。)

■■■ (ある程度)ネタバレ警告!■■■

そしてボクに言わせると、一人の主人公に対して異なる女優を配置したことで実際に起きたことは、付き合っている男性によって女性の現れ方が変わってくるというよりは、むしろ女性の現れ方が違うから、周りに出現する男性にバリエーションが起きてくるという風に、因果関係が転倒しているように思えるのである。正直のところ、主人公が桃井かおりの演じるような女性になったから、夏八木勲みたいな男が寄ってくるということの方が真相に近いと思うのだ。

つまり、次の男と出会う前に、主人公の女の方が既に変貌しているのだ。そして、その変貌の理由には説得力がないことにいらだちを覚える。だから、一人の女性を描いているようには、観客たる私には見えて来ず、同じ名前(知華)、同じ「オリンピック出場候補の体操選手としての過去」だけを共有する、まったく違う女性が次から次へとリレー式に現れているようにしか感じられないのだ。そこには日本の戦後に起きた現実の歴史を安保闘争や浅間山荘事件、そして酒田大火などの実写映像がドラマの中に織り交ぜられることで、「現実の一方通行の時間」の糸によってより強く結びつけられることになる。

しかし、観客が絶対に受け入れなければならない前提としての「女優4人によって演じられる」という人為的なオペレーションによって、厳密であるべきドラマ上の一本の人生の流れに「理由なき断絶」が起こっている。それが監督の狙いだったと言うのであれば、その狙いは(残念ながら)成功している。

ボクが保守的なだけかもしれない。そういう問題にしてもらってもかまわない。が、主人公の生きている時間の経過や出会っていく人間との関係に伴って変貌していく女の姿を、一人の女優(たとえば金久美子)が役作りで演じきった方が、おそらく主人公への感情移入は容易に起きただろうにと思うのだ(ありきたりな意見だが)。そうなれば、ドラマの最後に主人公の身に起こることへの衝撃も不条理感も倍増されたに違いない(もし、感情移入を回避することが監督の狙いなら、その試みも残念ながら「成功」している)。

だが、最後に演じた桃井かおりに起きたことは、不幸なことではあるが、体操選手として一度は未来が約束された、かに見えた若い主人公と「桃井かおり演じる女性」のあいだに、すでにアイデンティティ上の埋めがたい断絶が起きているので、感情的には「どうしてそうなるの?」というあっけにとられるような驚きは起こっても、シンパシーの感情は湧き起こらない。桃井かおりの演じる主人公は、死せずとも、すでに「終わっている」からである。それはつね日頃テレビ画面に登場する普段着の桃井かおりと寸分に違わない「地でいっている」演技なので、なおさらそのニヒリストにふさわしい最期であるようにしか見えないのである。それは言い過ぎかもしれないが、本当は不条理ではなくて、残念ながら「因果応報」というのに相応しい形になってしまっているのである。だが、平均台から落ちた体操選手の末路としては、あまりに断絶の溝が大きすぎる。

げに、可愛そうなのは実の息子の純一であり、2番目のエピソードで(どうやら)捨てたらしい夫なのである。いずれにしても、第一のエピソードにおいて、夫に対して良い妻であり、生徒に対して良い教師であり、子供に対して良い母であった「模範的な」主人公知華が、ただひとりの子供っぽい同僚の高校体育教師のたった1回の「誘惑」に負けて墜ちていくというのには、ボクは何のリアリティも感じられなかった。

今「誘惑」という言葉を使ったが、実はそれはむしろ「強姦」というのに相応しいものとして映画では描かれているのであり、それに元オリンピック出場候補の体力を持つ彼女がだんだんに負けていき、ついには結局身体を許す、というのでは、まるで陳腐なポルノ小説のような場面設定でしかない。悪いことに、監督自身の女性観が図らずも旧弊なセクシスト的なものでしかなかったことを暴露しているようにさえ思えてしまうのである。こう言って差し支えなければ、彼女の「転落」は、実はドラマの重要な鍵である。しかし、それが「知人(同僚)による強姦」がきっかけであったようにしか考えられないというのでは、あまりにも安易ではないか。

また、映画の冒頭が、最初の恋人であり夫となる主人公のパートナーの視点から描き始められる。これにより、夫から見た主人公像というのが「狂言回し」たる夫の目線から最後まで描き通されるのかと思いきや、実質的に夫が登場するのは第二のエピソードまで、という中途半端なものになっている(それも、妻が浮気をしているようだというめめしい懐疑心をテレビの前で丸く縮こまる背中で描く)ばかりか、決定的な、最初に提示された夫の視点というものが、ドラマの伏線として二度と機能しない。

これらの「アイデア」と「伏線」と「4人の女優」というのを組み合わせる映画の「別のあり方」というのがあるように思った(もちろんトーシローのアソビとしてだ)。それは、ひとりの主人公の時代時代を4人の女優によって演じ分けていくという、(現実にあったように)時間軸上に4人の女優のエピソードを直列につなぐのではなく、一人の主人公が、人生のごくわずかな転機によって、4つの異なる人生があり得るというのを描くのだ。言い換えれば、4人の女優を時間軸に対して平行に(4列に)配置するという方法だ。つまり、直列ではなく、並列に4人の女優の演じ分けを並べるということだ。

いくつもの未来があり得るというこの方法は、古くはキェシロフスキーによる映画『偶然』で試されているし、最近ではトム・ティクヴァ*の映画『ラン・ローラ・ラン(Lola rennt)』で試されて面白い効果を生んでいる。通常の映画はどうしたって時間軸上にドラマを並べるしかないので、2時間なり2時間半の時間枠の中に「直列」にフィルムをつなぐしかないが、「時間が戻った」という演出は、もちろん可能だし、それは近いところではタランティーノによっても巧妙に行われている。

(* その後、ダンテの『神曲』を使って三部作を作ろうと企図していたキェシロフスキー亡き後、彼の遺稿を使って、ひとつを映画として「復元」した『天国』の監督を、他ならぬティクヴァがやっていることを考えると、ティクヴァ自身がキェシロフスキーから創作上の影響を直接受けていて、実は『ラン・ローラ・ラン(Lola rennt)』として結実しているのであり、その直接のネタは実のところキェシロフスキーの『偶然』であるはずなのだ。)

つまり、こういうことだ。オリンピック出場候補の体操選手たる主人公は、ある日、予選の演技で平均台から落ちる。そして、そこからある一定の時間までは、若干の違いはあってもほとんど同じ状況で、しかもひとりの女優(たとえば、あの本物の体操選手に一番似ていた2番目の知華を演じる渡辺真起子)によってドラマが進行する。しかし、ある人間(男でなければならない訳ではない)と出会うことで、あるいは、本当にあったある事件によって、彼女の中で何かが変わり、外部では運命の歯車が切り替わる。次のシーンは5年後かもしれないし、10年後かもしれない。あるいは、60年時間が経っていて老婆になっていたって良い。だが、その「何年後かの主人公」というのを3人ないし4人の異なる女優が描き分ければ良い訳である。人生が変わったために、主人公の顔つきやしゃべり方まで変わってきても不思議はない。女優の歳の差もうまく利用出来るだろう。付き合う男や自分自身の行き場も何もかも変わってくる。そういう設定である。

同じ時間軸上に存在する女主人公の顔つきやしゃべり方まで、あのように短い時間の中で豹変するというのは、どうしても信じがたく、ボクには違和感を覚えてしまうのだ。だが、そうした違和感も同じ時間の中の別の世界(いわば平行宇宙)ということであれば、受け入れやすいのだ。

という風に、全体的には幾分批判的な評となってしまうのであるが、部分的に見れば良いと思える箇所がなかった訳ではない。まず、音楽がなかなか良かった。そして、金久美子と桃井かおりの演技が良かった。桃井かおりは笑えるほど面白かった。いただけなかったのは、主人公がどんどん年をとっていっても、いつまでも若いままの高校の同僚の体育教師である。これは何とも信じがたいのである。

「またの日の知華」公式ウェブサイト

posted at 23:39:00 on 2005-01-30 by entee - Category: 劇場映画ログ TrackBacks

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