entee memo

反対物の一致 #3:
死を欠かさぬものとする聖化の運動について

広島原爆ドーム
a) 記憶の薄れとともに急速に「聖化」されつつある、大量死の現場としての「聖地・ヒロシマ」

Golgtha
b) 聖人の死を以て、徹底して聖別化(consecrate)されたゴルゴタの丘(と信じられている場所に建てられている正教会)

『いかにして「忌避すべきこと」が「歓迎すべきこと」に転ずるか』という拙論の続編として

つい先頃《反対(物)の一致》の説明として「忌避」と「歓迎」という二項対立を取り上げ一文を書いたが、今回は俗なる世界(運動)の極に、聖なる世界の実現があるということについて書く。

脱聖化は、《より大きな聖なる出来事》の実現を可能ならしめる必要条件である。これはあたかも世界(コスモス/秩序)そのものについて、その死と再生(殺害と蘇生)がその健全な存続のために必要と考えられている神話的範型について言われるようなことを、そのまま別の言い方をしたのにも等しい。すなわち、旧弊になった「聖なる仕掛け」は、果たして次なる聖の実現を阻む「箍:タガ」としての働きが損なわれると、その生成の経年変化(老朽化)によって、ついに聖性の実効性を急速に失う。これが来るべき《次の聖》の実現を可能にするのだ。つまり、《聖なるもの》も《聖なるもの》の更新なしにはその効力を維持することはできないのである。

このことを理解するためには《聖》そのものについて一瞥を与えておくことは無益なことではあるまい。そもそも《聖なるもの》、そして《聖なること》は、人の「死」との関連なしには語ることができない。《聖》こそは死、分けても犠牲(供犠)のあるところに発生するというのは、われわれの誰もが直感的に了解することができるであろう。それほど死と聖には大きな連想による意味の連鎖が不自然なく成立するのである。

犠牲と聖との関連がその語源を遡行することによっても説明できることは、今さら断るまでもないだろう。「犠牲」を意味する英語のsacrificeの接頭語の「sacr」は、sacred(聖なる)やsacrament(秘跡/聖蹟/礼典)の「sacr」と同じもので、consecrate(聖別する/(崇高な目的のために何か)を捧げる」のsecraの中にもその痕跡が見出せる。[そして、このconsecrateを境に、secretion, secretee, section(分ける)と語幹を共有するsecret(秘密)にも通じていく。また、secretはcrisis(危機)にも語源的に類縁関係にあることは特筆すべきであろう。]

また、「仙骨」を意味する欧州語のsacrum (sacra, pl)にも同様のsacrの語幹を見出すことができる。この仙骨の「仙」が、仙人や仙薬といった不老不死や神秘的な力を表す言葉であることからも、その語の持つニュアンスを想像することはできるが、sacrumは、sacred bone(聖なる骨)の意味を共有しているのである。例えば、以下のような説明、すなわち「仙骨は脊椎、頭骨など重要な骨を載せ、前方に腸、特に男女の生殖器などを支え、保護する、すなわち霊器を守る骨であり、あたかも神に供するが如く」あるいは「実際に仙骨がいけにえの儀式に供された」といういくつかの通説からも「sacr」の語幹を持つ単語が「聖なる何か=犠牲に関わる何か」との関連を濃厚に持っていることは了解可能なのである。

歴史的には原爆投下のような大量死を伴った人の死の記憶を濃厚に維持した場所、また大型の天災によって発生した多量の犠牲を記憶する場所が聖地化されるということによってや、聖人の死に場所が聖地化される、というようなことからも、死と聖の関連が自然に受け入れられるものであることは了解可能であろう。

さて、こうした前提を踏まえて本題である《反対の一致》について、以下のことが考察できる。

聖と俗が「善」と「悪」(カッコで括ったのはそれが普遍的で置き換え不能のものでなく便宜的なものに過ぎないからである)によって容易に代入できることについてである。永遠であるべき善なる世界は、その老化によって悪に満ちた場所となる。こうしてこれらの「悪」によって次なる「善」の実現が準備されるのである。これは、例えば人間の組織としての宗団を中心に世界を視た場合の考えと言えるかもしれない。反対に、脱聖化の運動を善と捉えるピューリタン的(あるいは、リベラルな)道徳観もある。これらによれば聖なるもの(宗団的な悪の存在)の老化は歓迎すべきことであり、こうした熱烈な非聖化の運動によって彼らの「善」は実現する。つまり聖の永い時代は終わらせられるべき「悪」の時代(中世を「暗黒時代」という呼称を思い出すまでもないだろう)ということになるのである。啓蒙主義(人文主義:humanismの復興)の視点から見れば、教会中心の「聖なる世界」は克服すべきものであったわけで、まさにその時代以降の影響の濃厚に残る世界の延長上にわれわれは生存しているのである。つまり、その視点から言えば、「善」は実現しつつあり、「悪」は滅びつつある。だが反近代の視点から見れば、「悪」こそが実現しつつあり、「善」は滅びの途上にいることになる。

これは、まさに前回の「忌避すべきことがいかにして歓迎すべきことに転ずるのか」というテーマともオーバーラップしてくる部分であるが、どちらの視点で世界を眺めるにせよ、そのどちらか一方が実現することによって、一旦その世界が終焉を迎えるのであり、まさに反対物の実現こそが、自己の支持する世界の復興を意味する点では、同じなのである。

つまり、善(聖)は悪(俗)による世界征服の果てに自己を恢復するのであり、また、悪(聖)は善(俗)の全面勝利によって、むしろその存在への永遠回帰の法則を世界に誇示するのである。

■ 画像引用元
a) ファイル:広島原爆ドーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

b) Golgotha (Calvary) Hill-Photo: white stones, here visible right and left in the underground

■ 参考画像
The Hill of Calvary (Golgotha) shown in its original state






posted at 23:25:36 on 2010-02-16 by entee - Category: Coincidentia oppositorum TrackBacks

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