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“伝統”数秘学批判──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [19]
“5”の時代〜「元型的木曜日」#5【補遺 01】

補遺 01

■ 近代日本(維新後の日本)で観察される五角形・五芒星

五稜郭は、明治維新前夜、函館に建てられた日本における最初の近代的軍事施設である。この存在や建設の意図、またそれに楯篭もって戦争をした榎本武揚の行動などに胡散臭い部分があるのは知られたところである。五稜郭は、1857(安政4)年着工、1864(元治1)年に完成した江戸末期最新式の西洋型要塞で、現在特別史跡に指定されている。設計したのは蘭学者の武田斐三郎*。この建設に関しては謎が多いが、むしろこの五稜郭を有名にしたのは、明治維新後に起こった函館戦争である。函館戦争は、別名「五稜郭戦争」とも言われるが、これは榎本武揚が1868(明治1)年から翌年にかけて明治政府相手に抵抗して戦った(と言われた)内戦である。これが大いに機となって反政府軍(旧幕軍)の抵抗した戊辰戦争そのものが終結されたという「歴史的経緯」がある。その点から言えば、榎本武揚が旧幕側であり、すなわち明治新政府への反動分子/反乱者であったという旧来の捉えられ方が当然であるように見えるが、伝えられるところの彼の“真意”が「共和政府樹立、開拓統治に当たる」ことであったということから、彼が単なる反乱分子であった、というのは考えにくい。

* 武田斐三郎が初めて函館に来たのが安政元年。しかも彼が歴史に名を残すような最初の貢献というのが、その際に丁度函館を訪れていたペリーの相手をするという仕事で、その談判が始まった日が、これまた奇しくも5月5日だという記録がある。

「8隻の旧幕艦隊の軍艦を品川から率いて仙台に立ち寄り、そこで兵を募って蝦夷地に到着後、函館府知事を追放し、五稜郭周辺を占拠して戦った」のが本当で、それ自体が通常なら無視できない反逆行為と捉えざるを得ないことは疑問を挟む余地がないとは言え、蝦夷地に“共和国”を建国しようとしたというのが、「旧幕側の意図したところであった」とすれば、常識に則れば非現実的であるばかりか、「天皇を担ぎ出した明治新政府」の意図とも、それに「抵抗した旧幕側」の意図とも単純に解せないところがある。榎本の真意が何であったかを知るのは容易でないが、彼が新政府軍の軍門に下った後、罰せられるどころか、「新政府に登用され珍重された」というその後のいきさつを鑑みると、この五稜郭戦争そのものが旧幕側と明治新政府の対立、という単純な構図だけでは説明できない。これは今は亡き作家の安部公房が、その研究成果であるその著「榎本武揚」で展開した「八百長戦争説」である。

五稜郭はペンタゴンと同様に数性5を濃厚に抱く軍事施設である。明治政府が威信を賭けて建造したと言われるだけのこともあり美しい五芒星をしている。それがどのような実利的に有効な機能を果たしたかはともかくとして、五稜郭戦争とも呼ばれるこの「事変」は五稜郭を国際的に有名にしたし、北海道を象徴するモニュメントと成したのである。

第二次大戦後に独立した「共和国」の多くが五芒星を持つことはすでに触れたが、北海道と五芒星の関連性というのも、この五稜郭のみならずあちこちに見られるのは特記に値する。たとえば函館市の市旗と札幌市の市徽章にはどちらも五芒星が見られる。北海道自体が歴史的に浅いことを考えれば、こうした「近代的図像」がその象徴となることは納得できることではある。また多くの人々の目に触れているものとしてかつて札幌に拠点を持っていたサッポロビールのロゴにも見られる。サッポロビールの自社紹介の説明文によれば、「明治新政府は1869(明治2)年、開拓使を設置し、北海道の開発に乗り出し」、「以降、開拓使が廃止されるまでの十数年間、さまざまな事業が北の大地で展開され」る。「その中にはビールの醸造も含まれてい」た。「1876(明治9)年6月、開拓使はドイツでビールづくりを修業して帰国した中川清兵衛を主任技師に迎え、醸造所の建設に着手」。「同年9月、開拓使麦酒醸造所が完成。翌年、開拓使のシンボル、北極星をマークとした冷製『札幌ビール』を世に送り出し」たという。

北海道と五芒星のむすびつきは、「北極星」をこの新天地の徴としたことにおそらく直接の理由がある。下に見るように、北海道新聞の一面で現在も使われている題字には8つの五芒星が見られる。これは北極星と北斗七星*である。だが星の象徴が五芒星でなければならない理由は、日本が西洋文明と出会った時期とに関係性が求められる。あまりに自明であるが、日本が「5の象徴」と出会ったのが「5の時代」のさなかであったこと、そして何よりも日本が「5の時代の権化」としての合州国を通じてその時代精神へのイニシエーションを得たことに関わりがある。そのように考えたとき、もし近代国家の別の謂である「共和国」の建国が北海道で成されたとすれば、五芒星が国旗にあしらわれた新興国家が本州を北から睨む形で配置された可能性がある。そして、それが合州国完成のための50番目の州となったかもしれないのである。

* 北斗七星/北斗星と同様に、「北斗」という言葉自体が《西洋》を象徴する記号として顕われることがある。北斗の「斗」が単独で「柄杓 ひしゃく」を表すのであるから、北斗とは「北のひしゃく」のことであり、それが7つの星で表されることで「7の数性を文化の基礎とする文明圏」のことが暗示されている。そしてその言葉は日本の室町時代のマンダラ画にも見出すことができる。例えば「北斗曼荼羅」とよばれるものがそれである。北斗曼荼羅の内実は西洋占星術の十二宮を図画化したものである。したがって北斗曼荼羅は「西洋式曼荼羅」という意味の呼称に外ならない。驚くべきことにこうした西洋式の占星術も室町時代には実は密教と共に曼荼羅として日本に紛れ込んできているのである。


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補遺 02

江戸幕府は215年に渡って鎖国政策を採ってきたとは言うものの、キリスト教の布教と日本人の海外往来の禁止がその政策の主たる目的であったわけで、幕府による強力な貿易統制はあったものの、長崎市内には中国人の居住地区があった。建前上、禁止の対象はあくまでも西洋文明に関してなのである。だがその一方で、同市の出島は制限付きではあるが、オランダ人の商人などの往来・居住が例外的に認められていた。当然出島はヨーロッパ社会と日本のあいだの連絡窓口となっていた訳で、日本文化は出島からオランダ経由でヨーロッパにも紹介され続けていた。また同時に、近代化されていくヨーロッパ社会の動向は日本のエリート達のあいだには出島を通じて持ち込まれていた。

出島はキリスト教の伝播を畏れた江戸幕府が1634年に長崎の豪商25人に命じて造らせた扇形の埋め立て地であった。しかも当初の利用目的は禁教政策の際の被弾圧民であった切支丹宣教師等のポルトガル人の隔離収容施設だった。禁教政策を強化する直接の原因になった1637(寛永14)年の「島原の乱」以降、こうしたポルトガル人たちはマカオなどに追放され、さらに平戸にあったオランダ商館の倉庫も破壊された(1640年)のであるが、旧教徒(カトリック)を敵とする点で日本の権力者と利害の一致があった上に、日本国内における宣教活動もしないとの約束によって、さまざまな条件付きではあったがオランダは日本との付き合いを許された。そしてその居留地としてこの出島が利用されたのである。移転したのは1641年のこと。出島での商人等の生活監視は厳しかったが、オランダ商人は江戸幕府と深い関係があったため、島原の乱で原城に篭城した一揆勢に対して、商船を使って海上から砲撃を加えるなど切支丹による乱の平定に協力している。島内にはオランダ国旗の掲揚柱(フラッグポール)もあり、国旗は常に掲げられ続けたという。

長々と幕府の鎖国政策や出島のことに関して言及したのは、江戸時代の鎖国期が、実は一般に信じられている程、「情報からの隔離」を意味しなかった、ということを示唆するためである。少なくとも一般庶民は、ヨーロッパで起きているような民主革命や英国の“新ルネッサンス”(産業革命)に関する情報から縁遠かったに違いないが、政府の要人たちはそうしたことを蘭学者を通じて逐一知っていた。無論長崎などで学ばれた革命的な最新の知識が、最終的には江戸幕府を倒すような戦術を極東の辺境の地たる日本にもたらしたことは事実だが、こうしたエリート達による知識の独占は、幕府の終焉から大政奉還に到るまでの怒涛のような変化の裏側で、幕府側と新政府側のあいだに信じられないような「申し合わせ」が存在していた可能性さえ示唆しうるのである。






五稜郭の塁形が星形五角形(五芒星)を成しているのは「射撃の死角を少なくする」意味を持つとされているが、ヨーロッパの文化を学びシンボリズムにも通じた蘭学者の一部が、幕末の日本に“5”の時代の幕開けの象徴として五稜郭を設計築城させ、さらにほとんど意味不明とも取れる五稜郭戦争を一部のエリートたち(榎本がその首謀者)が引き起こした、ということは十分に考えられるのである。{29} 五稜郭がその形状のみならず、この函館戦争というイベントによって日本史の「一こま」となり記憶されたということに違いはなく、その戦争なければ、全く一度も利用されないままの「函館の飾り」として残らざるを得なかったであろう。

「象徴の具現化」という一見実用性のないことのために、戦争などの大乱が画策されるというのは、歴史の意義を一面でしか捉えられない「経済一元論主義」の歴史学者にとっては信じがたいことかもしれない。しかし、この小論を通じて私が試みているのは、そうした象徴主義者の象徴具現化という「信じがたい」策動によって歴史は正に動かされている、という可能性を提示することなのである。繰り返すように、現在のイギリス(大ブリテンと北アイルランドの連合王国)は、アイルランドを「数重なる闘い」の後に北と南に分割して北部を王国に取り込み、その結果として現在の4国連合が存在している。アメリカ南北戦争(市民戦争)は、南軍“Confederacy”の「連邦からの州独立」を違憲であるとして、北部が認めないことから起こった。州独立を「違憲である」として断固戦った北軍“Union”が勝利し、その延長上として現在の合州国50州がある。

さて、バージニア州にあるアメリカ国防総省が『ペンタゴン』という愛称で呼ばれている五角形の建物を本部としていることも決して忘れることが出来ない。これは五稜郭がかなりきれいな五芒星を描いているのに対し、建物の外郭が正五角形を成している。

国際連合 常任理事国5ヶ国
今日、日本で『国際連合』の名で広く知られている“国際紛争解決機関”である「連合国」{30}の安全保障理事会常任理事国が、第二次世界大戦の戦勝国(アメリカ合州国・イギリス・フランス・旧ソビエト連邦・中国)であるのは「当然」であるが、この“連合国”の常任理事国は“5ヶ国”である。そして、投票で選ばれる非常任理事国を含めると合計“15ヶ国”と定められている。ちなみに「星状五角形(五芒星)」を意味する“pentacle”や「五角形」を意味する“pentagon”の語源のひとつに“penkwe”がある。これには“5”以外に“50”(まれに“15”)という意味も含まれている{31}。

現在、日本などの敗戦国が「国連」憲章、すなわち「連合国憲章」の敵国条項の削除及び常任理事国入りを画策しているが、常任理事国の数を増やすことが、政治的以上の象徴的意味を持っている、ということは一般に認識されていない{32}。常任理事国が6ヶ国になるということは、それはとりもなおさず、象徴主義的歴史主義者にとって、安全保障理事会全体の構成国再編成が必要になると言うことである。ここでは詳細を述べないが、象徴的な歴史動向の実現を真に狙うものがいると仮定すれば非常任理事国が12ヶ国になり、安全保障理事会は合計18ヶ国(6+6+6)によって構成されなければならない。これは私の超科学的な預言であると言うよりは、それが成就されたとき、むしろそうした歴史主義者達の実在を裏付けるものとなろう。

さて、我々は未だに“5”の時代の直中にいるのだろうか。もしそうでないとするならば、どの時代にいるのであろう。そして、この数字によって象徴される時代区分は永遠にその数を増やしつつ発展していくのであろうか。こうした疑問について一口に説明するのは容易なことではない。確かなこととして私が話せるのは以下に示す通りのことのみである。










posted at 15:15:00 on 2007-12-25 by entee - Category: 伝統数秘学批判 TrackBacks

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