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“伝統”数秘学批判
──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [16]
“5”の時代〜「元型的木曜日」#2

■ 「数性5」の普遍的特性: Universal nature of the numericity five

まず「数性5」にまつわる一般論から始める。「数性5」と人間との関係というのはインド教(ヒンヅー教)の伝統、わけてもヨーガ哲学(そして仏教哲学)の中ですでに総括されていることを想起するのは価値のあることだろう。それは「五欲」とも呼ばれるもので、人間の「生存への指向」の五つの様態とも言い換えられるものである。

さまざまな表現の仕方があるようだが、この人間の心に存する五種の欲望の対象とは、概ねそれは財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲、と考えられているようである。あるいは、また五種の欲望とは「色・声・香・味・触」すなわち人間の五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に起因する欲求のことと考えられる説もある*。とりわけ仏教的な救済論、すなわち欲を断つ(回避する)ことで苦を超克する(因果の法則から離脱する)という哲学方針においては、克服されるべき対象としてピンポイントされる五つのテーマでもある。これについてはヒンヅーの伝統的教示画がテーマとして取り上げているものでもあり、往々にして五芒星、ないし外に向かって開かれた五つの花弁のような形状の図版の中に描かれることがある。

Five powerful enjoyments (Thames and Hudson)
図版:聖人を囲む聖餐式のグワッシュ水彩画。19世紀頃。「五つの最強の享楽(食肉、飲酒、食魚、特定の穀物、そして性交)」 from Tantra - The Indian Cult of Ecstasy (Thames and Hudson)

* ごよく 【五欲】人間の欲望を起こす色・声・香・味・触。また、財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲のこと。

人間にとって超克されるべき人生のテーマが「五つ存在する」ということは、裏返せばその五つが人間性そのものである、ということをも意味する。このような人間の五つの欲望の対象とは、現代の価値観の範囲において*は、ほぼ逆説的に「社会人/成熟した人間」としての完成、あるいは「成功」した人生において当然の如く「獲得を目指すべき目標」であると言い換えることもできるのである。むしろこうした五欲を満たすことで、「人間」が完成するということになる。

* なぜなら成功は勝つことであり他者を負かすことである。他者より知力体力を鍛え、少しでも早く高みを極めることである。そこには他者を少しでも出し抜くこと等が含まれる。こうした勝利を伴う「人生における成功」は資本主義社会において美徳とされている。そこには仁愛や慈愛という観念が入る込む隙間はない。

ところが「完成した人間性」は、その完成の頂点を極めるや否や、腐敗への坂道を転げ落ち始める。人間とはまさに発展し滅び往く周回を特徴とする《生命》についての名称なのである。「完成」は、すなわちその後の崩壊を約束する。そして人間性の獲得と崩壊という繰り返しが、人類の歴史性を決定する。

個人のこうした完成と腐敗は、集合としての人間、すなわち文明そのものにも当てはめることができる。歴史性とはすなわち変化であり変化とは完成・腐敗・崩壊の周期性に外ならない。この、「あまりに人間的な」始まりがあれば終わりがあるという欲望が端緒となって、限りある未来に向かって走り出すものが「人間性: humanity」の実体(本質)であるという反省から、限られたエリート(選民)にとって「人間性を追求しない」という思想的オルタナティブが検討対象となる。こうして初めて「超人」を目指すのが目標となるような極めて例外的な(聖なる)状況において、それが克服すべき問題となるのである。こうした「人間性の完成」が、人間の欲望の五態という形を通して古代から逆説的に論じられていたのである。

それが「五弁の花の開花」という元型的な表現で歴史時代のある一区分に一致する形で出現してくるだろうという予言が、アジアの聖なる教典によっても保持されて来たのだ。

ここではまた、様の東西を問わず身体という人間における普遍的実体(ミクロコスモス)においても、それを「五体*」という言い方で捉えられる慣習があることが思い出される。

* ごたい 【五体】
身体の五つの部分。仏教では頭・両手・両足、漢方では筋・脈・肉・骨・毛皮。また一説に頭・頸(くび)・胸・手・足。また、その五つの部分から成る体。全身。
大辞林 第二版 (三省堂)による


五体投地
「五体」とは、日常において「全身」とほとんど同義との前提で用いられる言葉であるが、仏教用語としては、特に、頭・両手・両足といった、体躯の外縁五方向に向かって伸長する身体パーツを指しているらしいことが解っている。チベット仏教徒(ラマ教徒)などが行なう巡礼者の礼拝──五体投地(写真図版)──も、自己を諦め、運命を大地や天の思し召しに委ね、より偉大な絶対者に対し身体を放棄してみせるという意味を濃厚に持つ儀礼なのである。この「全身を地に投げ出す」その礼拝法は、まさにその「五体」への締念 (giving up) が表現となっているのである。それは翻って「五欲」の放棄を儀礼的に表した態度であると読むことができる。

Vitruvian Man Archetypical pentacle
そして五欲と同様にこの中心から五方向に向かう身体(五体)の描き出すものが、また「五芒星」と呼ばれることの多い「星状五角形: pentacle, pentagram」なのである。“Vitruvian Man”という呼称で知られるL・ダ・ヴィンチのヒトの身体素描は、ほとんど「ヒトのアイコン」としても有名で、商業主義も含めてさまざまなところに顕われる範型的図像だが、両腕・両足を拡げるこの図版は、人間の五方向へ伸長する五体の性質をよく表している一例であると言えよう。

ダ・ヴィンチ素描 (Vitrubian Man) 引用先
Leonardo da Vinci Biography
Vitruvian Man (ca. 1492) @ Wikipedia


以上見てきたように、「数性5」と「ヒト」との間には、人間性の本質(通俗性)に関わる暗示が存在するのである。それは数性の時代区分との関わりを一旦度外視したとしても、すでに存在して久しい伝統的な表徴である。それは、あたかも「数性2」が天(垂直方向)と地(水平方向)の混合を意味し、「数性3」が「天と地(上下)を結ぶもの」との強い関わりがあり、「数性4」が「全世界:四隅を持った世界」と強い関わりがあると捉えられたが如き種類の、もっとも大きな枠組みとも呼ぶべき前提的暗示なのである。これらのことは、後に再び想起することになるであろう。





posted at 22:02:00 on 2007-03-26 by entee - Category: 伝統数秘学批判 TrackBacks

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