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音楽は《内容》を持つか?

以下は、一度取り上げたことのあるE・フィッシャーの評論(『芸術はなぜ必要か』河野徹 訳)の中で引用されていたヘーゲルの論述を孫引きする形で、ネット上で行なった「とある対話」の中で記した拙論を基に、大幅に推敲したものである。拙論「音楽と音楽に外在するもの〜E・フィッシャーを読む」の最後に紹介しているが、再度引用する。

「外面的な対象を一切持たないという意味における内容と表現形式のこの観念性が、音楽の純粋に形式的な面を明示している。音楽は明らかに内容を持つが、それは、われわれが造形美術や詩をさしていうときの内容ではない。それに欠けているのは、現実の外面的な現象をさすにせよ、知的な観念や心象の客観性をさすにせよ、とにかく客観的他在のこの外形なのである。」(ヘーゲル『芸術の哲学』 太字は引用者による)


まずこの文章の前半部分に関してだが、われわれは「外面的な対象を(ほぼ)持たないという点において、たいがいの音楽が純粋に形式的(かたちそのもの)でしかない」ということを意図しているのなら、ヘーゲルの指摘についておおむね同意できる。そう。「音楽は音でしかない」(安藤広)のである。(そして作品が視覚表現だとしても、それが抽象表現ならば、この指摘は相当程度に適用可能となるだろう。)

ことによると単に翻訳の拙さのせいかもしれないが、このヘーゲルの文章がいきおい不鮮明に聞こえるのは、ひとつには指示代名詞の使い方がある。特に分かりにくいと感じるのは、「それは、われわれが...」と「それに欠けているのは、...」の部分である。第一の「それ」とは何を指すのかが分かりにくい。第二に「それ(に欠けているのは)」が、ほぼ確実に「音楽」のことを指していることは想像できるが、最初の「それ」は、おそらく「(音楽の)内容」を指しているのだろうと憶測できるものの、確信は持てない。 「外面的な対象を一切持たない、という意味における内容と表現形式のこの観念性」という長い節を指している可能性もある。

「外面的な対象を一切持たないという意味における内容と表現形式のこの観念性が、音楽の純粋に形式的な面を明示している。音楽は明らかに内容を持つが、その音楽の《内容》は、われわれが造形美術や詩をさしていうときのものではない。《音楽》に欠けているのは、現実の外面的な現象をさすにせよ、知的な観念や心象の客観性をさすにせよ、とにかく客観的他在のこの外形なのである。」[赤字は筆者によって解釈された補足]

とりあえず指示代名詞を以上のように了解した前提で書けば、賛同するまでもないほど、ほとんど「身も蓋もなく自明」なことだと言う以外にない。だが、近年自分が獲得しつつあるもうひとつの視点から言うと、この「自明なこと」すら無条件に「正」であるとは言い切れない局面がある。

純粋な音楽――伝統的音楽用語に従えば、「標題音楽: program music」に対する「絶対音楽: absolute music」のようなものを指す?――が「外面的な対象を持たない」というのは、基本的にはそうだ(というより、少なくともそのようなものを純粋音楽と呼ぶだろう)。だが、《音楽》が、深層の部分では相当に具体的な「外在する何か」を指し示している(反映している/呼応している)可能性があるという考えに傾いてきている。これは深層レベルの話なので、音楽を創っている本人さえ無自覚である可能性がある。

音楽を音楽であると捉えるのは、受け取られる音楽の性質だけに帰される現象ではなくて、音楽の体験が内的体験である以上、受け取る側の内的神秘がそうさせるという見方が可能な訳で、音楽における「ある不変の実体」だけを問題にすれば済むということにはならないのである。

ヘーゲルは、この文章において暗示しているように条件的には「《内容》を持つ」と言っている訳で、そのように「内容がある」とわれわれがに認識な可能な以上、音楽の作品の(内側)だけでなく、その音楽の有り様と「相似の関係」にある何らかのものが、作品の外側に存在しているのを感知し連想するからこそ初めて「内容がある」とわれわれが感じているという捉え方が可能だ。

音楽によってもたらされる官能的な心地よさや不快というものは、確かに外在する何かとは無関係に、「音楽」それ自体が、感覚器官を通してもたらす「ひとつの純粋な経験」であるということが出来そうだし、その側面を無視している訳ではない。だが、われわれがある音楽から純官能的な快感とは別の次元の感動を得ているとき、それは単に甘い飴を舐めているような甘美な経験とは別種の、高次の《内容》に共鳴していることを意味していることが想像できる。

外在する一切と全く無関係に「ただ存在する」ものが、われわれにとって「表現」である捉えられるということ自体が、われわれには「想定する」ことができないのではないだろうか。もし、そういうものがあるとすれば、それは人間が積極的に関与する「表現」ではなく、単なる「現象(出来事)」と呼ぶべきである。ただし、「現象」からある種の人間が「世界からの兆し」(外的世界からわれわれの世界へと照射されているかに見える徴)を捉えることができる人間のシャーマン的な能力の存在を想定すれば、世の中には「神の表現」としての「地上的現象」があると言うこともできるかもしれない。ただし、それは人間と音楽との関連という文脈から逸れていくので、ここで深入りしない。

さて、このヘーゲルの「拙い翻訳」自体は横に置いといて、

純粋な音楽が「外面的な対象を持たない」というのは、基本的にはそうだが、深層の部分では相当に具体的な「外在する何か」を、指し示している(反映している)、という考えに自分は傾いて来ている...

実は、この辺りが現在自分が大きな時間を割いて考察している部分なのだ。「いかにも自明」なことでありそうでいて、今日の表現者や鑑賞者が容易に認めたがらない部分である。 私はまさに人間精神の「底なしの穴」について、そして抽象表現が総じて、人類の《世界的な体験》に似た何か(エピック)を指しているという可能性に関心が向いているのである。 ある驚愕的体験が、「現象世界の世界的現象」を無意識に「認識」しているということに...

つまり、知的なレベルでの(頭で了解できる)作者自身の《題材》への理解や自覚の有無と関わりなく、ある種の抽象表現が何か重大な内容を伝えてしまうという“作品の力”をめぐっての話となる。

これは、フロイトやユングの発見や心理学、そして比較宗教学のエリアーデの研究などなどに親しんでいる方々からすれば、「もはや議論の余地のないこと」ではあろう。ただ、その割には、世間では抽象表現を積極的に解釈するよりは、その抽象を抽象のまま「放っておく」(要するに、「純粋に味わう」)ことで鑑賞態度として足りると言わんばかりの言説が、(一部の創作家や芸術愛好家たちの間でさえ)目立っているように感じられて仕方がない。つまり、創作物を真ん中に置いて両サイド(つまり表現者と表現を捉える側の両方)から、抽象芸術には「意味はない」とか「意味を解釈する必要はない」とか宣い、積極的に作品を「理解」する事を忌避する態度が出てきているような気がするのだ。解り易く言えば「理解」よりも「感じる」ことが重要視されていると言い換えられるだろう。もちろん、「感じる」のが先にあって「理解」もある訳だろ!と当たり前の事を言いたくもなるのである。

一方、創作現場からの言葉として、「われわれの小さな頭で考えたこと、理解した事を姑息に作品に入れ込むことでは、大した芸術作品は創れないのだ」という訳の分かったような断定を聞く事もある。人間精神の奥の深さや無意識のフェイズにおいて創作された“作品の力”を思い返すに付け、そうした発言も十分に理解できるのだが、真に重要な「意味」というのは、抽象作品を通して伝わるという以外に、ある種の言語や記号を以てすれば「言語化」さえ可能だ。実際、「詩」というものがこれまで愛されてきた歴史や現実(詩は、文字という記号を使って表現される)を観れば、おそらく多くの人々にとっても、疑問の入る隙のないほど自明な事だ。

問題は、あくまでも、所謂「無意識」や「幻視」が告げるところの《題材》の重要さであって、その重要さを一度「意識的」に受け止めれば、それはふたたび知的レベルでの言語的行為に還元する事ができる(もちろん簡単な事ではないが)。つまり、ある種の題材について「○○の表現形式によってしか伝達できない」とかいう言い方は、われわれにとっては明らかな虚偽だ。音楽や映像作品などの形式の違いを考えれば、体験の質、すなわち「伝わり方」に違いはあっても、音楽であろうと、映像作品であろうと、詩であろうと、「伝わるもの」に違いはないのだ。これは、その《題材》を了解した人にとってはあまりにも自明な事である。

われわれが言語に対する偏向的こだわりを持った「頭でっかち」な人間である...にも関わらず、その対極とも考えられるような即興音楽という創作方法にも同時に強いこだわりを抱きつつ取り組んでいるのは、無意識的な境地が意識的な音の操作よりも、より多くの「劇」(あるいは劇的効果)を生み出し、伝える(しかも深層で)ことがある、という実感を抱いているからだ。(もちろん、まだまだ「駆け出し者」の自分は、演奏中に「常に無為である」ことからはほど遠いのは認めても良い。) ただし、それを可能にする境地や技術力ということとも切り離して考えられないことではあるため、そうした《内容》を包含しうる表現形態において、「只の無為」であるということが、必要条件であっても十分条件ではないことについても自覚的でなければならない。

(推敲中)


だが一方で、(本音としてはあるかもしれないが)だからと言って音楽だけを唯一特別なもの、あるいは「最高位のもの」という(有り難い)前提を甘んじて受け入れ、その上にアグラをかくつもりもない。

(推敲中)

posted at 01:13:21 on 2006-07-25 by entee - Category: 音を捉えようとする言葉 TrackBacks

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