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“伝統”数秘学批判
──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [9]
“3”の時代〜「元型的火曜日」(中)

Trefoil: St. Mary of Sorrow333 [図版1]
Hindu Trefoil33333... [図版2]
Fleurs de lys & three magi33333... [図版3]



■ 天上的な“3”と地上的な“3”

これは“3”とその倍数であるところの“6”(そして将来的に“9”)の間にある関係を論じる際に再び取り上げることになるだろうが、ここでは簡単に「数性3」をめぐるもう一つの課題として、天上的な三位一体をあたかも反映したかに見える形で現れる数々の地上的な三位一体について、そして「数性3」の発揮する「上下相似」的、「天地呼応」的な象徴機能について言及する。

確かに「数性3」の地上的な表象化という視覚的な<徴>についてこそが、今回のシリーズ「公然と隠された数」のテーマと直接つながりがある部分ではある。したがって、ここではわれわれが後に「元型的金曜日」と呼ぶであろう超歴史的<周回>の「最終日」となる時間的エポックの完成(成就)の際に、再び、より明瞭に現れることになる地上的な<徴>と、それらの織りなす“星の座”(星座)を占める主要な「登場人物」たちに、この地上的な「数性3」の兆しが見出されるということを指摘しておくに留めよう。“3”の時代において、その象徴の担い手がこの歴史的時代に一気に勢揃いすることがこの象徴体系の理解における最大の重要事なのである。

今まさに述べたように、とりわけカトリック教会の一見詭弁じみた「三位一体」の神学論的教説について深い理解を得なければ諒解できないような論理展開が本論の目的ではない。ましてや深遠なるキリスト教の三位一体教説を置き換えるような挑戦的な理論の提示を目論むものでもない。そうすることはこの小論の扱える範囲を容易に超えてしまうだろう。だが、その教説の歴史上の登場と機を一つにして、“3”の時代のエポックが始まり、“3にして1”という三位一体、ひいては「数性3」にこそ注意を向けるべき秘儀があると、人々の下意識に「聞こえぬ大音声」を持って作用させたことは、「十字架」の集合的記憶の刻印に次いで実に大きな効果のひとつであったと言わねばならない。そして世の中のあらゆる事象にこうした「三つで一つ」という「三つ組:トライアード」の構成を象徴的に当てはめて行くことが、“雨後の竹の子”のように、まさにこの時期に一斉に開始されたのである。それらはすべてキリスト教的<聖三位一体>の代表格である「父と子と精霊」という不可思議な概念のバリエーションとなって地上的な象徴顕現事例の数々を欧州社会にもたらしたのである。

われわれの平面的世界上の構築物において、四脚より三脚が物理的安定を保証することが知られるが、ここからもその“3”と“3の倍数”に内在する法則が、形而上学的な世界にも通用されているのが想像できよう。あるいは大胆に言い換えるなら、そうした不可視世界における安定が、この物質的な世界において目に見える形で反映しているということこそが秘教的伝統において広く共有されるところである。これらは「天上的な三位一体の地上的な模倣」という、いわば「形而上学的な理想」を反映したものなのである。

例えば卑近なところでは、われわれが「血と汗と涙」と三つのものを並べ、また「三種の神器」という三つで一組という組み合わせを好み、それらの表現が成立した時にある種の「安定/収まりやすさ」を見出すということも、現在にまで残るそうした傾向の一つの現れと言えるかもしれない。また「三つの柱が一つの全体を支える」というような三脚式の世界観*は、現代の「立法・司法・行政」の三権分立の考えにも反映されている。そして「三人組」の政治体制・三頭制は、ロシアの三頭立ての馬橇(うまぞり)にならって「トロイカ」と呼ばれることも思い出されよう。

とうてつ
* 上に見るような古代中国の儀式用青銅器には三脚様のものが多々見られる。これは「安定」と「表徴」のふたつの機能に供すると見られる。上掲の青銅器(鼎)の文様は明瞭な饕餮であり、饕餮紋鼎は対面する二神(神的存在)がひとつの顔を作り出すことによって「世界」を表徴する典型的な対称図像と考えることができる。ユニークにも鼎は、その「世界」を三つの足が支える事例と考えられる訳である。世界軸: axis mundiとも世界樹とも濃厚な関連のある「対称図像」については既発表の『集団的浄化儀礼と<超歴史的秩序>について』でも取り上げた。これは世界像に関連する「3の数性」であり歴史の時代区分に呼応する「数性3」とは関わりがない。参照先:集団的な浄化儀礼と<対称>の伝えるもの [1]その他

画像引用先:饕餮紋鼎(とうてつもんてい)@ 東京都国立博物館



さらに、社会の三階層「式・民・兵」というものも中国や日本において、古代から伝わるものであるが、これはヒンドゥーの4つのカーストの上層三階級に相当するものである。すなわち「バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ」がまさにそれである。例えばまた、フランスにおいて1302年から始められた<三部会>は、「第一身分である聖職者、第二身分である貴族、そして第三身分である市民で構成される」のであり、これは“3”の時代に登場し、「自由・平等・博愛」の三柱のスローガンを世間に知らしめるフランス革命の生起まで続く。

これら地上的な具現化という事例の中でも今回のこの歴史において、その「数性3」の権化たるある国家が、象徴占有権の「正統な相続者」となり、そこから「数性4」「数性5」と象徴的数性を色濃く保持しつつ、世界の歴史の進展の上で極めて重要な役割を果たす「帝国的」な近代国家の中心となって行く。(その連続する数性の「三兄弟」自体が、また俗界における「グレイト・トライアード: great triad」を成しているのである。)その「正統な」最初の相続者として、「数性3」を持つ近代国家についてやがて論点を絞っていくわけだが、その前にいくつか回り道をしておかなければならないことがある。当然、この小論の包括可能な範囲でそれをしていく以外にないのであるが...


■ 「数性3」に関わる図像群

歴史を一コマ戻すことになるが、キリスト教をローマ帝国の国教として定めたのはテオドシウス大帝である。われわれの世界において、その後の欧州文明中心的な歴史的進捗に直接的な影響を与えた帝国、古代ローマを<2つ>に分割し二人の息子に継承させたのはまさにこのローマ皇帝である。西暦380年に「数性2」を強く保持したキリスト教自体、そして国教に認定されたばかりのキリスト教が、帝国の分割: schismによって事実上「ふたつのキリスト教」へと分断された。旧教と正教がそれである。そして帝国ローマの(そしてキリスト教の)東西分割というこの劇的な出来事こそ、“2”の時代の中心を画するエポックであった。

西ローマ帝国は分裂のわずか百年後の476年に滅亡。一方、東ローマ帝国は俗称を「後世ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」という風に変えて続いたものの、1453年にオスマン帝国によって征服されて名実共に滅んだ。だが「東ローマ」は、それまでも名前こそ「ローマ」としての国の格をかろうじて維持していたものの、もっと早い時点で有名無実化していたのである。事実上、「双頭の鷲」の一方たる西ローマ帝国滅亡が“2”の時代の終焉にほぼ一致すると考えることができるのである。

“2”の時代はこのような壮大な歴史的エポックの後に、“3”の時代に引き継がれる。その時代推移の象徴的な「兆し」はキリスト教が力を付け「帝国の宗教」へと昇格されてゆく直前の原始キリスト教の時代にすでに暗示されていた。それは現在では新約聖書の福音書の中に若干の記述として見出すことが出来る。生まれたばかりの「人の子イエス」には<兆し>を受信した<三人の賢人>が遠方より訪れ[図版3]、救世主到来を祝福する。キリストを囲む十二使徒は、三人一組の「ペア」となり、世界における東西南北の「四隅(しぐう)」に向けて、布教の先兵として放たれる。それはさしずめ三鈷杵のような矢尻(やじり: spearhead)状の花模様が正方の四隅(よすみ)に向かう徴として*各所様々な形で記録されている。いよいよ、“3”の時代が幕開けするのである。

* 世界の東西南北の四隅を表現する十字架の象徴の中でも、例えば下の「マルタ騎士団の十字架」と「第一回十字軍の十字架」からは、濃厚な「数性2」しか感じられない。十字架の二本の棒の先端は二股に分かれ、しかもそれはひとつの図像の中で四回繰り返されることでその数性が強調される。

Maltese Cross First Crusade

図版引用先:The Maltese Cross - a sinister design?

ところが、やや後年になると下に示すような「数性3」が十字架との組み合わせで登場する。そしてそれは四角い(正方形の)オブジェクトとの組み合わせによって装飾的に登場するもので、世界の四隅を表す「矢印」として機能する。

Fleurs des lys & cross[1] Fleurs des lys on tile[2] Fleurs des lys at 4 corners[3] J. Verne Bookcover[4]
「フルール・ド・リ」が四隅にあしらえられた例
図版引用先:
[1] 西Wikipedia
[2] Fleur-de-Lys Medieval tiles @ Encaustic Tiles
[3] Richard Butterworthのタイルデザイン
[4] Le Pays des Fourruresの表紙 @ Jules Verne



■ 三位一体のショウブの紋章

Picture of iris fleurs & rooster

端的に言えば、欧州文化において最も代表的な「数性3」の象徴の権化は「フルール・ド(デ)・リ: fleur-de-lys / fleurs des lys」という「アヤメ」(黄菖蒲: yellow flag*)の紋章である。後にフランスの王家の紋章となる、花でありspearhead(武具の一種)である「三を一つに束ねた」形状をモチーフとした図像こそが「数性3」の伝達を明確に目的としたものなのである。

* 実は、“fleur-de-lys”がユリの花なのかアヤメの花なのかという議論は古くから存在するのであるが、それは目下「アヤメ科の黄菖蒲であるらしい」ということで決着しそうである。だが、それがどちらであるのかというのは、こう言って良ければ、象徴図像学的には特に重要ではない。「三弁の花びらを持った花」を通して伝達する内容にわれわれを注目させることこそがこの象徴図像の眼目だからである。Iris pseudacorus: アヤメ科アヤメ属であり、Iris(アイリス/イリス)と呼ばれる花のひとつである。Lily(ユリ)ではない。

Yellow Flag Yellow Flag (from top) Bourgogne Heraldry
Iris pseudacorus(黄菖蒲)の実写。こうした明瞭な三弁の花びらから多くの詩人や紋章学者が魅了され、数性を表すための記号となったことは頷けるものがある。上から見たものからは明らかだが、完全に三支に分かれている(上右)
画像引用先:(上)ブルゴーニュの紋章。仏Wikipediaより
なお、Heraldicaの提供する“fleur-de-lys”の項目は有用な情報で満載である。


当然のことながら、「フルール・ド・リ」は三位一体を表象する代表的な図像ではあっても唯一のものではない。三つの輪や棒、三角形、三色などいくつかの元型的な基礎的図案が存在することは断っておかなければならない。ただ同様の意味を持つ他の図像と違って、この「フルール・ド・リ」の図像をとりわけ一旦「排他的」に取り上げざるを得ないのは、後に論じるように「近代国家としてのフランス」(より正確には、後に「フランス」となっていく領土内の実力者達)が、<三色旗>を獲得する以前の段階でひろく採用したものである(つまり歴史のやや早い段階で宿命付けられている)ということの意義が、「時間と数性」関連の議論の中でどうしても無視できないからである。

他の三位一体を表象する図像には三つ葉のクローバー、トレフォイル(trefoil) 、そしてある特定の形状を持った十字架、等々が存在することは確かであり、またいわゆる対称図像の関連でも取り上げられる世界至上権を体現する事物の中にも「3の数性」が見出されることがある。しかしながら、「フルール・ド・リ」ほど明瞭に宗教関連図像のひとつとして登場し、ほとんど十字架の役割を置き換えるほどの意味性: significanceを発揮するものはない。それは一見すると必ずしも宗教的とは言えないような──だが断じて本質的に宗教的な──例えば「楯」のような武具や「スタンダード」などに現れるシンボルという点でも、十字架が「数性2」の代表でありえたようにフルール・ド・リが「数性3」の代表格としてわれわれが捉えることには一定の正統性があるのである。


■ 2の図像から3の図像へ
[ここにひとつ小さな節を挿入]


■ 三を象徴する幾何学的図像

幾何学模様とは極めて純度の高い数性を保持する伝達手段である。それらはほとんど過不足なく純粋に<数>をコミュニケートするのである。無論表現された「数性」がある歴史的段階を意味するのか、別の意味を持った「数」を意味するのかは、それが表徴された文脈全体を無視するわけにいかず別途判断が必要であるが、幾何学模様と数というものの間にある関係は、ここで多大なる紙面を割いて論じるまでもなく、すでに切っても切り話すことができないことは明らかである。これについては「普遍的伝達」を目指した場合の<元カレンダー>について論じた「数性と歴史の回帰の秘儀」の章における若干の記述をいま一度ご覧頂くのも良いかもしれない。


●トレフォイル: trefoil

欧米の教会聖堂においては石の壁に穿ちを入れて作った透かし窓があるが、それらには花弁を模したような事例として教会などの建築物などに多く見出される。トレフォイルと呼ばれる窓はだいたいにおいて三つの円を一つに合体させたような丸い花弁のような形状になっている。[図版1] ここでご覧頂くのは「透かし」になっていない事例である。透かしは機能に正当性を貸与するが、「透かし」になっていない以上、実益的には何の役にも立たず、こうした例はその図像が伝える内容(シニフィエ)にこそ意味があるということの実証になる。

Trefoil
図版引用先:Illustrated Architecture Dictionary @ The Buffalo Free-Net (冒頭の図版1も)

縦長に垂直に天上へ向かって伸長するステンドグラスを伴う場合、こうしたトレフォイルの類はその頂点にしばしば見出すことができるし、単なる透かし窓として単独で現れることもあれば、回廊沿いの石でできた手すりの下に「繰り返しのパターン*」として列をなし複数現れることもある(冒頭の図版2:図版引用先:Sarasvati Sindhu (Indus Civilization) )。

* 以前も言及したように、「数性3」が「1を3で割った数」すなわち「0.333333...」を獲得するということを想起されたい。
Illustrated Trefoil (architecture)図版引用先:Probert Encyclopaedia


こうした花弁の透かし窓は、クァトロフォイル: quatrefoil、サンクフォイル: cinqfoil などのように数性をひとつずつ増して発展して行くところからも諒解できるように、極めて単純明快で分かりやすい数的図像の事例なのである。

Foilは、花弁を意味し、tre-, quatre-, cinq- などはそのままその花弁の数を意味する数字を意味することは断るまでもない。

● 三つ葉のクローバー
この三位一体の象徴的図像は、現在ではそれを教示した聖パトリックとの関連でアイルランドにおけるカトリックの象徴となっているが、ここにも普遍的内容を伝える数的意味合いが濃厚に存在しているのである。そしてその内容はトレフォイルを通じて図られようとする伝達内容と同様のものなのである。

St. Patrick with a clover [a]
Clover Peuter [b] trinity of church toward faith [c]

画像引用先:
[a] UNDERSTANDING THE TRINITY
[b] Three Leaf Clover Floral Pewter Pin @ Exclusively Yours Gift Shoppe
[c] HIS MISSION OF FAITH @ Father Baker

何度も述べているように、父なる神と同様にキリスト(子)と聖霊が同じ「神性」を持つという「三位一体」の教説は、現代の知性にとっては単なる詭弁以外の何ものでもないものとして捉えられるであろう。実際問題キリストの「人性」を否定して(例えば人の子イエスを)神と同列視する(ないしは、それに準じたものとして看做す)カトリックの教説は、神秘主義の世界観においては一定の真理を伝えるものであるとは言えようが、イエスが人間であったからこそ彼に降り掛かった受難に意味があるという本質を損なうものだとも言える。また三位一体の教説こそ、人間が文明を構成する以上、文明を象徴する<徴>に惹き起こる受難、言い換えれば文明そのものに降り掛かる受難がそのまま人類の受難を意味することを想起すればこそ、現世を肉体を持って生きる人々にとって重大な<普遍的人間>の指し示す象徴の本質的意味を骨抜きにするものとなる。すなわち、このカトリックが最終的に採用した教説は、そうした欺瞞的な「神秘主義」の意図の潜むものである。だがそのためにこそこの教説は、複層的かつ韜晦な神学論のヴェールによって神秘化: mystifyされなければならなかった。こうした神秘化は「霊的真理」というものに対する批判精神を欠いたご都合的な世界観を許容し、さらには結局その信仰が人類を救わないという事実からわれわれの注意を引き離し、それへの無反省な「信仰」と「救済の欺瞞」は、今後われわれに降り掛かってくる事態についての責任という認識を容易に忘却させるのである。

仮にわれわれの人生というものが、全く逆説的な意味で、そうした「神秘的な真理」の<実現到来>によって最終的に「救済」されるにしても、現世を生きる人間の実質的苦悩を相殺することはないばかりか、その真実認識はさらに深い懊悩をもたらすのである。そしてその冷厳な事実こそ宗教のメッセージが重大でありうる唯一の理由であったにも関わらず、「イエスの聖化:脱俗化」の実行によって、現世を生きるわれわれの罪過まで免罪されるという欺瞞を惹起させた。そしてその生き方を変更することの無き「免罪された人類」こそが、次なる歴史時代の終焉を決定付けるのである。


聖パトリックがアイルランドにおいて「三つ葉のクローバー」を提示して教示されたとされる「三位一体」の教説は二重の意味を持つことになる。それはひとの頭上に降り注ぐ精霊によるバプテズマについてその三叉のような形状の「緑の扇」を振りかざし、現世生活者に対してひとつの神聖示顕を司る役割をアイルランドはやがて演じるであろうからである。それは身体を二つに引き裂かれた怨嗟の集合的記憶が、<緑の兆し>を持つ人々と連合するときにその謎が解き明かされる筈である。


■ 「天蓋の星」としての三位一体の図形

後に取り上げる「数性4」「数性5」の記述において図像事例を見ることになるだろうが、「星」の象徴とは、その性質上当然のことながら、しばしば「天蓋」ないし「天上」の範型的図像(美術作品)中に登場する。だが、「数性3」においてもそれは例外ではないことが分かっている。「数性3」の象徴は、その形状の特質から「星」と認識されることはまれである。だが天蓋との組み合わせにおいてこの表徴の在り方はあたかも「星」のような性質を与えられたかのようでもある。それほど多くの事例を見出すことはできないが、本章冒頭でも掲げた図版2のように、「数性3」の象徴の「天蓋」との明らかな関わりを示すものがあることを指摘しておこう。たとえば同様のケースがブルゴーニュ地方のNotre-Dame-de-l'Assomption 教会の壁画[図版3]でも観察することができる。ここにおいては、三位一体の象徴である既に取り上げた「フルール・ド・リ」が、絵画の隅々まで鏤(ちりば)められており、背景が「天上」であることが暗示されている。したがって、ここで描かれている象徴世界自体が、天上界での出来事であるかのような体裁を見せているのである。

画像引用先:Eglise Notre-Dame-de-l'Assomption @ Montaron (Nievre)

このことは、地上の植物であるアイリス(あやめ)に、天界に示される星々の徴と同じ機能、すなわち「数性」が担われているということに他ならない。逆に言えば、これから見ていく展開の象徴たる「星の象徴」には無視することのできない濃厚な数性が封じ込められているのである。

(「中」の終わり)



posted at 08:45:00 on 2006-04-01 by entee - Category: 伝統数秘学批判 TrackBacks

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