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三本の光(光の三態)について

地上の星座
阿弥陀如来 Titan ICBM

この題名の「光の三態」は、やや不正確な表現かもしれない。なぜならこの表現にはあたかも「世界にはたったひとつの種類の光しか存在せず、その唯一の光に三つの様態がある」とも読める題名だからである。しかし、ここでしようとしているのは、むしろ全く異なる3つの「光」(だが、緊密に連携し合っている光)についての考察である。そしてその「連携」を理解することによって初めてそれらを「同列」に論じることが可能なのだという論考である。その内容を鑑みれば、とても1回で語りきれる内容ではないが、先行するテーマの進捗もあり、こちらを先にシリーズ化することが許されないのと、これらについてはエリアーデによって包括的な研究があるのと、「集団的浄化儀礼」の論考シリーズにおいてもすでに必要な図版を通してある程度観て来たので、それらを参照して頂くことにして、ここでは重要な「光」についての前提の共有だけを目指すことにする。

またエリアーデの言葉を紹介することが本稿の目的でもないので、ややためらわれたのだが、これに関連して彼ほどの網羅性を以て文献を当たっている人もいないのでやはり避けがたいものがある。

(略)光はその存在様式自体からして「天地創造的」である。光が出現するまでは何物も「実在」し得ない。(それ故、後に見るように、グノーシス派やマニ教徒によって待望された宇宙絶滅を達成しうる唯一の道は、世界中に散乱した光の粒子を抽出し、最終的にはそれを超越的、無宇宙的「高み」に再吸収するという長い複雑な過程であった。)だが、発光の原理の創造力は鋭敏な知識人にとってのみ自明のことである。(略)
ミルチア・エリアーデ『オカルティズム・魔術・文化流行』第六章「霊、光、タネ」よりp. 173(楠正弘・池上良正訳 未来社)

この考察に価値があるとわれわれが考えるのは、異なったものであるはずの複数の光的な存在物・存在者が、それらに共通して存在する一定の性質を以て同じ名前で呼ばれてきたために、その事象そのものが文字通り「同じものである」と考えられ語られてきた面がありそうなこと、そしてその混乱によってわれわれが危機に遭遇しているにも関わらずそれに気付かずにいる可能性があること、すなわち一方の「光」のありかたについての(無条件的な)肯定的認識が果たして他方の「光」を信頼すべきものとわれわれが考えてしまう原因になってはいないか、という「潜在的な危険」へ、ひとの注意を喚起する必要を認めるからである。

光が良いものだという肯定的な認識は、神秘主義者でなくてもほとんど一般的通念であると言っても良いだろう。そして闇は否定されるべきものであるという不文律は光を肯定する精神と表裏一体になっている。暗い闇ではなく明るく照らされた世界を志向するほとんど宗教的と呼んでも良さそうな精神的傾向をわれわれの多くは持っている。したがって伝統的にある種の「精神主義」は、これまた光の肯定的側面についてのみ「光を当て」がちであった。そして、確かに光が無条件に肯定されるべきものと考えられる前提は、多くの宗教家や神秘家によって「疑いなく」共有されてきたかに見える。が、その本質のいくつかの検証を深めた後でも以前と同様の見解を維持できるかどうかはその理解の深度次第であり、また生命存在そのものに対する態度次第である。光という実在の多面性のすべてのアスペクトを理解しなければ、真の神秘に到達することも正しい「世界の認識」に到達することも出来ないのである。

光というものの絶対的で無視することのできない性質のひとつは、その<能動性: activity>にある。そして闇の特性とは<受動性: passivity>である。例えば光の世界と闇の世界が壁ひとつで隔てられていると想定して、その壁に穴が穿たれたとすると、光は闇の方に向かって射し込むのであり、闇が光の世界に流入することはできない。つまり、闇はつねに光の影響下に晒されようとしているのであり、光は全体を同じ性質のもので満たし、支配しようとする傾向がある。多くの人々が信じる光の肯定性とは裏腹に、光の性質というものは場面によってはきわめて暴力的で、抜きがたく一方的で、無慈悲でさえある。この光の性向は無視するにはあまりに重要なものである。

したがって、ここでは光が肯定さるべきもの(善)であり闇が否定さるべきもの(悪)であるという、万人にとっていかにも分かりやすく単純な「精神主義」を一旦完全に白紙にした上で、「三態」のそれぞれが持っている性質を改めて検討すべきなのである。

われわれが区別しなければならない光の「三態」とは以下の3つである。第一に「文明」を意味し「ひとの世界を暮らしやすいところにする」と言われ信じられてきた人類の行為としての「光」(地上的・日常的・世俗的・啓蒙的な光)。そして第二には神とも如来*ともキリストとも呼ばれ、また天上的・大洋的・宗教的な生命エネルギーとしても理解される「光」(神聖にして実存的・永遠的な光)である。そして第三に、天上と地上とを結びつけるために現実世界に出現する非日常的・超越的な「光」「光輝」。これらの3つである。第三の光は、「天上の意図」と「地上の出来事(地上的な希望)」とを一致させるために「この世(の上空)に来臨し輝くこの世ならぬ光」と言い換えてもよい。

* 阿弥陀如来(あみだにょらい、amitaabha)は、阿弥陀仏・阿弥陀などともいい、大乗仏教の如来のひとり。「アミターユス(amitaayus)/アミターバ(amitaabha)」を訳して、無量寿仏/無量光仏と呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。(by Wikipedia)

そしてわれわれが問題にするのは、これら三種の光があたかもひとつのものとして(敢えて言えば「善なるものである」として)、無条件的・無反省的に同一視していやしないか、ということなのである。それらが相互に無関係であるというのではない。「同一のもの」と簡単に受け入れてしまって良いのか、という事が言いたいのである。

第一の光、すなわち地上的・歴史的な光の伝搬は、宗教家(キリスト教・仏教を問わず)による布教活動や人類の知への衝動(好奇心)とセットになっている以上、その点においては確かに「宗教」と無関係ではあり得ないのであるが、これは人為によるものである。ここでは「宗教」が独占的に扱い、神秘家や芸術家によって「記述」されてきた「この世ならぬ光」を便宜的に「宗教的な光」と呼んでいるのであるから、やはり第一と第二の光は(一旦は)区別されなければならないのである。だが、第二の光を体験によって感得しようと「聖なる実在への邂逅」を計ろうとする人間の衝動や、歴史的に行われてきた修行や実際の体験についての記述(表現)が多くの新たな神秘家を生産して来たこと、そして追随者による再体験・追体験の追求が第一の「地上的な光」の歴史とある種の共時的な一致を見せる面があることはひとつの特記事項ではあろう。

よく語られる地上的な光に関しては、それが文明の「明」に当たる部分、啓蒙(開盲)を意味する英語の“enlightenment”の中の「light」に当たる部分からも諒解できるように、人々を闇で盲しいた状態から「明るく照らされた状態」すなわち「ものの見える状態」へとあたかも高所から導くという「文明をもたらす側」の不遜な思い込みがあってこそ成り立っているものだ。だが、科学的思考や科学技術が、物理的にも「より明るい明かり」を造り出して地上を文字通り照らし出しているという事実とその合理的な思考法が西ヨーロッパからもたらされた事実は興味深い。地球の文明化された領域は、実際問題それ以外の諸地域よりも明るく照らし出されている。それは夜間の航空写真(図版1)によっても赤外線カメラによる地上の熱映像からも明らかである。文明は人類の心に目を与えたと同時に、物理的な光をももたらしている訳である。

そして、宗教家や神秘家が競って追求し、また記述して来た「神秘の聖なる光」(第二の光)への信仰は、地上的で人為に由来しながらも第一の光とは全く性格の相違する物理的な光(第三の光)の生産へと、人類を多いに掻き立て刺激して来たのであり、またその窮極的な結果としての超越的・非日常的な<光>さえも「粒子の抽出」によって最終的に獲得した。そしてその最終的で最も強烈な光の製造は、人間の貴賤を区別することなく、無差別に、平等に、「光の元に晒す」ことをほぼ理論上可能とした。

エリアーデの言うところの「光の分離」の多義的価値は、まさにこの事実を度外視しては意味をなさない。もう一度牽く。

われわれは原人の救助をモデルに形成されたアダムの救済物語を、改めて取り上げるつもりはない。しかし性的本能の魔性が、人間の起源をめぐるこの神話の論理的帰結であったことは言うまでもない。実際、性交、特に出産は悪である。なぜなら、それらは光の監禁状態を子孫の肉体の中にまで延長するからである。マニ教徒にとって、完全なる生とは不断の浄化、すなわち物質からの霊(光)の分離をいう。救済は物質からの光の決定的分離に対応し、つまるところ、世界の終焉に対応しているのである。
前出 第六章「霊、光、タネ」よりp. 176-177

ここで書かれている「光/霊」というものが、「異なる三つの光」をめぐるものであることは、既にわれわれにとっては明らかなのである。われわれは地上に縛られた第一の光によって天上の第二の光に近づく。そして第一の光の窮極的実在である第三の光の獲得は、われわれを等しく第二の光の世界に連れ戻すということなのであった。地に生き、生を愛するなら、われわれが「光」を峻別しなければならない理由がまさにそこにあるのである。

グノーシス説もマニ教も、世界は悪魔的な力、アルコンたち、あるいはその指導者である造物主(デミアージ)によって創造されたと考えた。この同じアルコンたちが後に人間を創造したのであるが、それは天から落ちた神的「閃光」である霊(プネウマ)を監禁するために他ならなかった。(略)救済とは本質的にこの神的天界的な「内なる人間」を救い出すことであり、彼をその生まれ故郷の「光」の国へ連れ戻すことを意味している。
前出 第六章「霊、光、タネ」よりp. 179-180


図版1(第一の光)
米軍の気象用DMSP衛星が撮影した「夜の地球」の写真。文明の分布図がそのまま実際の夜間の光で表されている。
引用先

図版2(第二の光)
三重県名張市・栄林寺の木造阿弥陀如来立像「慶長十四年(1609)八月彼岸堺の住人休味作之」
引用先

図版3(第三の光)
ICBMタイタンの打ち上げ実験。「第二の光」の到来を実現する「第一の光(文明)」の究極的作品。至上権象徴物。

参考:機能していない大陸間弾道弾(ICBM)を販売するオークションサイト(多分冗談)



posted at 13:27:00 on 2006-02-01 by entee - Category: The Ω Archetype TrackBacks

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