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金剛への第一歩
集団的な「浄化」儀礼と<聖婚>の伝えるもの
陽物としてのフィニアルとその周辺

 

■ 金剛杵(ヴァジュラ)の対称デザインの由来

三鈷杵、五鈷杵の中心の棒は、世界至上権を表す中心(世界軸)であるとともに、象徴的な「花」の雌蕊(メシベ)である。それは五鈷杵であれば、世界の四方向から中心へ到ろうとする複数の雄蕊(オシベ)同士の至上権獲得に関連した闘争であり、三鈷杵であれば東西(ないし南北)から中心へ到ろうとする接近と隔離(近づけられつつも離されている)の様態と視ることも出来る。

すでに観てきたように三鈷杵、五鈷杵の類は、それ自体が雷電を引き起こす「スパークプラグ」であるが、同時に中心軸を表すフィニアルとそれに到ろうとする対面する「波頭」のパターンそのものを精確になぞるものでもある。つまり、図像学的にすでにお馴染みの対称構図にするという意味でも電極の一方が複数(2本ないし4本)でなければならなかった。

このように考えた時、ヴァジュラの対称構造の理由のひとつが説明されるのである。プラグと考えたとき、電極はプラス/マイナスそれぞれ1本ずつであれば機能的には十分なのであるが、金剛杵の「電極」に電圧を加えて、それぞれの先端が十分に中心へと接近して最後に接触する直前に火花が散る、その刹那は、2つないし4つの陽極のうちのどれかから「スパーク」が発生するのである。

金剛杵による発火は至上権の獲得に続き起こる地上的なるものにとっての一大イベントとなる。金剛杵によるスパーク(火花)の発生と雄蕊の雌蕊との接触(すなわち受粉)は、同じエポックを画するイベントである。花は受粉とともにその役割を終える。花は枯れ、実や種を作り、植物としてのライフサイクルは終焉を迎え、次周の開始まで「種子」として長い休息に就く。スパークプラグは世界における「火による更新」の端緒となり、天上に届くほどの「大きな花」を咲かせる。世界の表面上にある「活動」をすべて灰の状態に戻し、次周の開始まで長い休息へと就かせる。そしてこのクライマックス的出来事は、まさに地上的聖婚と呼ばれるに相応しい。


■ 陽物としてのフィニアル

以上のように、フィニアルを植物の性器になぞらえるならば、受粉する(花粉を受け入れる)メシベであるが、動物の形体的にはフィニアルはまさに男性生殖器のそれであることに反論する者はほとんどいないだろう(ただし「壷」の暗示するものは常に「永遠に女性的なるもの」としても解釈は可能である)。そしてフィニアルが男性性器(あるいは単に性器)と形体的に似ているのは偶然ではない。花や実(果物)といった植物的シンボルと置き換わること自体から言っても、機能上の「性器」的な側面を持つことは明らかである。

文明の植物的発展、あらゆる種類の「陽的な」文明行為(天に届くような高い塔や摩天楼を建てる「男性」的行為、天に達するような飛行機械を「打ち上げる」男性原理的企て)に見られるところの、「上方に伸長し天空へと聳える」「上方へと飛翔し天空で炸裂する」。「より高く」を競うパターン、特にその伸長した「竿」の先端が「炸裂」するというパターンの男根(陽物)的な性向*というのは否定することが出来ない。

また、われわれにとっての「歴史時代」という文明活動自体のこうした陽性的(昼の時代)な性格は、さまざまなところですでに論じられており、文学や美術を通しても表現されてきた内容**であることを想起することは有益であろう。



* 参考:愛染明王と聖体顕示台に見る「台座 + 柱 + 炸裂する光」の象徴
「Ω祖型」と「柱 + 炸裂する光」の両方を性器的なものと捉えた現代美術の一例:Gilbert & George “DICK SEED, 1988”


** モーツァルトが『魔笛: Magic Flute』で表現したことも「陰」から「陽」の世界への参入を象徴的に描いた英雄譚である。夜の女王: The Queen of Night の嘆願によって、攫われた娘の救出に向かう主人公が、結局は娘を取り戻すどころか、自らが、囚われの身になっている娘と一緒に一見「悪役」風の太陽神(ザラストロ: ツァラトゥストラ)の世界に取り込まれてしまう、と読めるある種の非条理劇である。ここには悲劇も喜劇もない。「あるがままのわれわれの世界」を淡々と象徴的に描いた神秘的名作である。


■ 「武器」としての性器

一方、「男性器」と「武器」の関連というのは、さまざまなところで暗示されてきたが、特に男性器と銃・大砲(gun, pistol, canon)による比喩、武器の名前で「男性器の暗示」とするのは、洋の東西で広く観られるものである。その本質は、「弾」の飛び出す長い筒をもった形状である。性的なものと、この「終わり: final, finish, finale」をあらわす造形物の間には、かくもリビドー的としか言いようのない、いわば下位意識のレベルでのつながりがありそうことは、ここで一旦特記しておいても無駄であるまい。つまりそれら図像の表現しようとする内容とは、(神秘家ならば宇宙的とでも呼びそうな)世界規模の「婚姻:聖婚」という最大級の儀礼なのであり、それは現実の儀礼的結婚(聖婚)を通じて伝えられてきたものでもある。儀礼的婚姻(聖娼との儀礼的性交)についてもエリアーデがあらゆるところで言及している。


兵庫県越木岩神社の“男根岩”・「六甲メガリス」のひとつ

ここにこそ、あらゆる聖なる場所、象徴的表現作品群において「性的」な象徴が満ち満ちているために一面的に捉えられる性的解釈やその根本的誤謬の理由があるのである(すべてを「性的」に解釈することで説明が事足れりと考えるリビドー教説、肉体的な類似を指摘することで説明が済んだと考える身体至上的教説)。しかし、象徴図像と性器(身体)との類似/機能からだけで、これらの図像を理解したと考えることは、はやり断じて片手落ちと言うべきで、「性器を表している」という納得だけでは実は全く不十分なのである。われわれの巨大且つ複雑に発展した文明行為に於いて、それが如何なる種類の「性器」「身体」を表しているのかということまで想像が到らなければ、そのフロイディアン的な性的関連性の真に重大な意義は十全に理解されず、全人類史的な「絵」の中で、深層で、解釈できなければあまり用をなさない。だが、これについて深入りするのは、それらから「究極的に」何が読み取れるのかということを中心的課題とする本稿の目的にそぐわない。

 
左:ブバネシュワル、パラスラ・メスワル寺院のリンガ(陽物)
右:ポロンナルワ、Siva Devalaのリンガ(陽物)

「性器」を表すことは、性器自体の描写に関心があるのではなく、性器がその形体を通じて象徴的に指し示す「もの」と、こうした図像群が指し示す「こと」の両方に共有されることが存するに過ぎないことを指摘するに留めよう。

■ 「終わらせるもの」としての武器

宝珠やヴァジュラ(金剛杵)が、煩悩を断ち、現世の苦しみを「終わらせるもの: terminate」として認識されていることは、むしろ本稿におけるわれわれの議論以上に、既に広く「信仰者」が了解しているところのものである。また、愛染明王が愛欲を成就させることで現世の煩悩からの「解放」を図るというのも、すでに信仰者にとっては馴染みのある考えであろう。

一方、対称図像の中心に位置する「finial」として知られる物品が、闘争の果ての最終的な獲得物であり、闘争の勝者に与えられるもの、すなわち「至上権」を象徴するものであることもすでに観てきた。だが、この対称図像の中心に置かれるものと、門の左右脇に置かれるものが、同時に同種の物であることもすでにわれわれは了解している。すなわち、周期と周期の狭間を象徴する時間的な節である正月に、門の左右に配される門松やそのほかの七五三飾り、そして社寺仏閣の山門の左右に配される金剛力士そして狛犬も、「最初」であり「最後」である時間の結節点であり、それは橋の欄干に等間隔で配置される擬宝珠と同じ意味を持つ。

とりわけ、三本の青竹を束ねた門松が、時の終わり(Ω)と始め(α)という二つの周期の狭間(年末年始)に現れる象徴物であることはすでに見たが、繰り返すようにこの青竹を「斜めに切る」ということで得られる図像的意味は「竹槍」という武器である。そこには宝珠がそうであるように三位一体と濃厚な関連のある「防御具」ないし「武具」の暗示である。そして、二つの波頭(ないし植物の蔓)が至上権を巡って競い合うその地の中心に聳えるのがフィニアルという「壷」ないし「杯」で暗示されるある種の象徴であることも見てきた。

世界の至上権を巡る闘争は、その至上権を特定の覇者が「獲得」することによって一見終わるかに見える。完全な覇権が闘争を終わらせるという見通しによればそうであった。しかし、使われない武具はないことと同じである。獲得された武具(壷、杯)は使われずに済まされることはない。それは獲得した者によって独占され隠匿されようとするが、その秘儀は必ずや漏洩するのである。そしてその至上権を独占したかに見えた覇権者が、やがてその獲得物によって復讐される運命にある(バガヴァッド・ギーター、映画『地獄の黙示録』、フレーザー『金枝篇』、他)。それは最大規模の暴力を(身内にとっての)平和獲得の手段とする者たちの宿命である。



太陽と月の婚姻とは、宇宙的(地球規模的)な陰と陽の聖婚である。これは石灯籠にも暗示のある秘教中の秘教である。この日蝕で象徴される事態とは、まさにこの太陽と月の「婚姻」が成就したことを暗示している。この日蝕という「太陽が月によって隠される」現象は、キリストが磔刑死したときに顕われる象徴的現象でもあった。それは、陽の世界としてのもう一つの至上権象徴としての太陽が、「月」なるものに隠され、世界が暗くなることへの暗示がある。この巨大スケールの婚姻は、思弁的錬金術の伝統図像の中に脈々と受け継がれてきたものだが、この婚姻こそが、われわれ人類の苦闘と煩悩の世界を終わらせ、陽の世界の終焉と、長い日没の時代へと誘う二大(四大)勢力の「結合」の瞬間でもある。



石灯籠(左右に日と月の穴が配される):一方から他方の穴を観ると「蝕: eclipse」となる。人魂の様にも精子の様にも見える「雲気」がこの灯籠にも観察される。


ボッティチェッリ 「VenusとMars」:眠っている様に見えるマルスは恍惚境(擬死状態)にある。フェアリーは合計4人いるが、ランス(槍)を支えるフェアリーの数は3。ランスは明らかな武具であるが、その先端は法螺貝によって偽装されている。


聖婚の祖型としての錬金術的「婚姻」Johann Daniel Mylius “Philosophia reformata”





posted at 23:00:00 on 2005-11-29 by entee - Category: The Ω Archetype TrackBacks

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