entee memo

「死と再生」と「世界の更新」から観た
『タイタニック』考

■ 「死と再生」の祖型パターンとしてのタイタニック・ドラマツルギー

映画『タイタニック』で描かれている物語の核は、タイタニック級の巨大客船が正に地球上の人類の造り上げた文明世界の縮図であるという一点に尽きる。そしてそれは「建設」され、文明を沈むはずの無いと信じる大量の人命を抱えたまま「崩壊」するという法則を描いている。例えば、それはエリアーデ風に言えば「インド・ヨーロッパ諸民族の間に観られるイデオロギーの三分割を表現している」。すなわち、呪術的・法的な支配の機能(バラモン:ジュピター)、軍事力を司る機能(クシャトリア:マルス)、豊穣と経済的繁栄をもたらす機能(ヴァイシャ:クィリヌス)となるわけであるが、それは船を水平に三分割し、「法的至上権」を持つヨーロッパの貴族達とアメリカの新興の成金階級達が船の最上部を占めており、二等、三等と下に行くにつれて、アイルランドやスコットランドなどの社会的下層(非支配階層)となる。「力を司る者達」は、沈没直前まで途切れることなく電力が供給するために船に残る。また最期まで救命ボートを用意し人々を移す役割に淡々と専念する。彼らこそクシャトリアの名に相応しい存在である。そして新天地を目指す貧困層は第三階層の「ヴァイシャ」に相当し、さらに下には、「不可触民」たる地下世界の住民(夜昼なく奴隷のように働かされる石炭焚き達)が、ほとんどその存在さえ気付かれることなく船を動かすための燃料補給をしている。

船長の「短い不在」(睡眠)の間に、船の命運を決める災害が起こる。それから起こることは、緩慢だが確実な「水による世界更新」の洗礼である。

特に、主人公の女性に起こることを通して、典型的な通過儀礼(イニシエーション)によって文字通り「生まれ変わる」人間の姿を描いている。まず、自分の生き方を変えようと決心したとき、彼女は船の突端で「鳥」になる。これはすべてを鳥瞰する「天界への飛翔」の瞬間を意味している。むろん、この手の「飛ぶ」イメージというのは宮崎駿映画などでも常套手段となっている程一般的な「日常」を超える至高体験描写であると言ってしまえばそれまでである。

だがその後の「世界の破局」を迎える彼女には、愛する者のために地下に閉じ込められている少年を救い出すという英雄的な「地下の迷宮行」と極寒の水を超えて延々と進んで行く道行きを含んでいる。また、主人公を命に関わる試みに遭わせた悪漢は火を噴き出す地面の割れ目、すなわち「地獄の業火」の中に落下する。そして愛を貫くヒロインの行為は、その絶対的な自己滅却の傾向を表す反面、「自分が救われる」ための結末へと近づく。彼女は愛する者を救うことなしに自分を救うことは出来いからである。「救命ボート」に乗ることは旧世界との関係を断ち切ることを不可能にしたし、沈み往くタイタニックに戻ることは自力で生き残る戦いが不可避の選択となるからである。しかし、当然のことながら独りの女の「生まれ変わり」を描く以上、彼女は愛する者と真に生きるための死闘を選ぶ。そしてその後は、選び取った者(若い男性主人公)の冷静かつ本能的な生存への直感的指導に疑うこと無く素直に従うことで、自らの「生還(死と再生)」を成就するのである。

沈み往くタイタニックの水で満たされた「丸天井」のある広いサロンに、一瞬ヒロインを思わせる白いレースを来て漂う「高貴な女性」の水死体が幻想的に映される。これは今にも船尾を垂直に立ち上げ、最期の断末魔を挙げようとする船の「頂上」に向かって意を決してまさによじ登ろうとする女主人公であるはずがないのであるが、同時に旧世界に属した彼女自身が一旦「水死」したことを象徴的に見せている訳である。

いよいよ巨大な渦を発生させながら船が水没し、その渦に巻き込まれ海中に沈むことで「完全な闇」の苦行を体験する。その後、凍てつく海上に漂うところで「氷の洗礼」を受ける。やがて急速な低体温症によってほとんどの最後の生存者まで凍え死に叫び声さえ聞こえなくなった海に、女主人公だけがひとり残される。これが絶望的な「完全な途絶」を体験する。こうした一連の通過儀礼の経過が完璧なシナリオによって描かれるのである。

※ ※ ※



■ 沈没事故の「現実」と現代文明

タイタニックが北大西洋の海に沈むとき、その乗客乗員の中で、その出来事の影響を被らなかったひとは一人もいなかった。それは僅かな生き残りの含めてである。沈むに際し生存の機会は富める者達に有利に働いたことは言うまでもないが、数の少ない救命ボートへ乗り移る機会に与らなかった者達にとって、その「世界」の社会階層はもはや意味をなさないほどの大混乱となった。船とともに、海底深くまで引き摺り込まれて行った者、海に引き込まれずに救命胴衣を付けたまま凍てつく零下の海上に浮かんだ者、運良く救命ボートに乗れた者、救命ボートから落ちた者、三等客室から出られなかった者、人を救った者、救われた者、人を押しのけた者、押しのけられた者、船に残ることを選んだ者、肉親と別れることを選んだ者、肉親と留まることを選んだ者。海上に浮かぶ者を救出に戻った救命ボート、みるみる凍り付いて声を上げなくなった海上を漂う遭難者のところに戻らずに、ただじっとしていた救命ボート。船上のあらゆる存在の中で、船に乗り込むことを選んだ者達の中で、その沈没という<出来事>の影響を被らなかった者はただの独りもいなかった。誰一人として。船が生きる縁(よすが)である限り。これが「一蓮托生」の意味である。それはタイタニックという名の惑星に張り付いた一本の根を持つ植物なのである。その<出来事>の中で1500人を超えるという人々が、北大西洋の何の救助も期待できない孤独な海上で、海に飲み込まれたか投げ込まれたのだ。

そしてわれわれの住むこの世界もそのタイタニックの運命と如何ほど違うというのか。違いは70億近い人々が一つの運命を持った母船に乗っているということである。この地球上で起きる<出来事>は、誰一人としてその影響を被らないでいることが不可能なほどの規模で進行している。すでに氷山とは接触した。水の浸入は始まった。あるいはこれから接触するのかもしれない。氷山接触への海路をひた走っているのかもしれない。浸水であるにせよ、氷山への驀進にせよ、その出来事の規模が大きいが故に、その衝突によってこれから起きる<出来事>の深刻さに気付かずにいるだけだ。そして、規模があまりに大きいためにまるで静止した様にしか見えない。しかしその進行は力強く確実だ。いくつかの兆候は起きている。船の舵取りを廻って熾烈な戦いが起こる。その結果、運の悪いことにわれわれの船の操舵室と一等客室はごく僅かな人間どもによって乗っ取られた。その選択の方法も極めて狡猾なやり方だった。<民主主義>の理念を反映しない議会制民主主義と呼ばれる方法が注意深く選ばれ、われわれ一人一人には選挙権が1票だけ与えられた。これを行使することが民主主義としての政治に参加することであると耳には告げられた。ありとあらゆる既得権者保護と優先権取得のために力を持った極一部の者だけが甲板に集結できるようにした。そして操舵室には自分たちの向かおうとする目的地へと、好きな速度で疾走してくれる船長、そしてクルー達を送り込んだ。彼らがどう(それ自体が身代わり*かもしれない)その船を動かすかは、この僅かな人間たちの奢侈な「社交界」で決まった。彼らは必要ならもっとも快適な甲板の日を浴び、また外が寒ければ毛皮を羽織って葉巻とブランデーの待つ暖かいサロンに避難することも出来た連中だ。片手には身体を温めるためのブランデーがあり耳には心地よい音楽があった。そしてそのサロンに集合する極僅かな連中が彼らにとって都合よく「船が運営される」ためのあらゆる法を造った。合法的な手段で悪法を成立させ悪法はあらゆる悪を実行した。そして合法的に世界を破滅させる舵取りをさせ、僅かな船上生活の中で少しでもよい場所を陣取ることに邁進した。法律は唯一にして平等に適用されるべきものであるにも関わらず、不平等を実現するための手段と化した。工場のような巨大な機関室は大勢の石炭焚きを残したまま真っ先に密閉式の閉鎖扉で断絶され最悪の焦熱地獄は一転して非情なる水攻めの密室と化した。三等客室の人々は檻のような扉に閉ざされ避難路さえ断たれた。舵取りは誤った。連中の「思い通り」の運営さえ、自分たちを護れないほどの判断過誤を犯して船の針路は氷山へと方向が確定した。激突か接触か。いずれにせよ氷山との邂逅までは時間の問題だ。それまでの時間をどう過ごすかをわれわれは求められている。舵取りを彼らに任せたままにしているのか。操舵室を占拠する者から舵を奪回するべきなのか。船底で石炭を炉に放り込む石炭焚き達はこの出来事が定まっていても作業を続けるべきか。彼らに船の進む方向を知らせなくて良いのか。もはやすでに運命が変えられないほどの速度で破滅に向かっていることが明らかな時、どのようにわれわれはその時間を過ごすべきなのか。僅かな生存空間を求めて僅かな残り時間を争って過ごすのか。愛する人とともにその時間を過ごすのか。愛する人と別れても、自分の役割を淡々と果たすのか。はたまた愛する人と過ごすことが自分の役割なのか。この単純な構造、沈み往く船、という「現象世界の世界的現象」の中で、われわれはその判断を迫られている。

※ ※ ※



■ 消えてなくなる巨大客船

「現在のタイタニックは鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が消化され、残りも約90年で消滅するだろうと言われている。」ウィキペディアの「タイタニック」の項
つまり、僅か200年足らずの間に鉄骨なんかもすべてなくなるという訳である。恐るべし、海の力。われわれの「乗り込んで」いる鉄文明たる「タイタニック」も、たったこれだけの時間で「水の洗礼」を受ければ消滅できると言うこと。科学が扱える「実験的に証明できるような正確な対象物」は、これほど脆く地球上から消え去るのである。

* タイタニック身代わり説:
J. P. モーガンの子会社である船会社ホワイトスターが、外観が全く同じ新品のタイタニック号と古いオリンピック号をすり替え、経営不振からの脱却のために、保険金入手目的でタイタニック号(実際に「事故」に遭ったのはオリンピック号)を氷山に衝突させ沈没させたという陰謀説。その真偽はともかくとして、陰謀動機と実行可能性、そしてそれを裏付けるかに見えるいくつかの状況証拠は、非常に興味深い。
豪華客船「タイタニック号」は沈められたのか





posted at 01:18:59 on 2005-10-05 by entee - Category: ビデオ鑑賞ログ TrackBacks

コメント

entee wrote:

詩だ!
2005-10-06 00:54:49

entee wrote:

余りにも嬉しくて1分あまり独りで激しい横隔膜垂直痙攣を起こしていました。爆笑です。「可笑しみ」の激烈な放出です。これも宇宙の“ムラ”に由来するentee惑星上の「不均一」をノーマライズするための身体反応です。しかしこれほどの発作的な爆発を起こす力を「言葉」は持っている訳ですね。すごいな。やっぱり「始めに言葉ありき」だったんですね。

さて、「物質分布にムラがある,濃淡がある」ということについてですが、読んでいて自分の記憶が、「それ」に気付いた「小学校に上がる前の時期に壁に貼ってあった世界地図を見ていて得た感慨」にまで押し戻されました。宇宙(世界)が公平・平等なものであるならば、なぜ世界地図があのようなイビツな曲線でできているのかという、ある種の神に対する原初的疑問(不条理の原初的認識)で、そのイビツさがそもそも神の不在を意味しているのではないか!とまで懐疑を抱いたある一時期を思わず想起してしまいました。そしてもし世界が理想的な在り方を具現化していたら、黙示録で描かれているような「端正な世界像」すなわちイスラム庭園にあるような中央に噴水があってその豊富な水が正確に東西南北に流れ出ている...様なものであるはず、だという20代後半の感慨まで戻ってきてしまいました。

われわれが許容できる美というものは、イビツであることが今や前提となってしまっている昨今ですが、幼い頃は「端正」であることが何故あり得ないのかということが不思議でしょうがなかった。何故ならそこに至上神による地上への関与が全く感じられないからです。あの「イビツ」さが、実はいびつでない(必然的形状である)という理論の登場をいろいろな神学者は求めたことでしょう。

しかし考えてみると「物質分布にムラがある,濃淡がある,... この理由は私には十分な知識と理解はありません」についてですが、それは宇宙のビッグバンと称される「あちら側」から「こちら側」へ「存在」が漏れ出し吹き出す「穴」自体がイビツであった(世界地図に見られる程度のイビツさ)から、というのが当面の理由のように思えます。が、それなら「何故、その穴はイビツなのか」ということになり、「吹き出し口」自体が、存在を存在たらしめるために「不均一さ」を好むという法則があるのではないかと想像してしまうのです。

ああ、いやんなる。
2005-10-13 00:16:59

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