entee memo
課題が見出される庭園 - Annex:祖型と反復、宗教と象徴、神話と図像
――「あらゆる手立てを尽くして正否を明らかにしなければならないほどに
例外的に重要な論件」としてのエゾテリスム釈義

2008-04-21

怒鳴り合う「思想」:映画『実録・連合赤軍』に殴られる

実録プロモーション画像

「映画」と言えばテレビでプレビューを流しているようなハリウッド系映画や、次から次へと作られるテレビのホームドラマみたいな邦画作品くらいしか知らないという方はお読み下さらなくていい。

テアトル新宿
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程
5/10(土)よりモーニング上映決定
タイムテーブル
〜5/9(金) 11:30/15:20/19:10〜22:40
5/10(土)〜5/23(金) 11:00〜14:30 ◎1日1回上映

【第58回ベルリン国際映画祭】(2008年)
《フォーラム部門》招待作品
★祝【第58回ベルリン国際映画祭】2冠受賞!!★
●最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)受賞!
●国際芸術映画評論連盟賞(CICAE賞)受賞!
★【第20回東京国際映画祭】★
●《日本映画・ある視点》作品賞受賞!




映画から受けるダメージはゆっくりとだが確実に作用している。

彼らを「狂信的」とは呼びたくない。こうした「正しさ」への信頼の感覚とは、われわれが若い時に一度は通り抜けてきたものだからだ。私の近代主義や高度技術文明に対する批判というのも、その根っこは高校生くらいの頃に初めて出会った哲学に求められるのだし、「間違いつつある文明」に対する警鐘として殉じたいという気持ちとともにあったものだ。

だが、機関銃のように指導者の口から発せられるきわめて抽象的で観念的な言葉、言葉、言葉。時間を掛けて考えれば、「純粋な思想」として理解できなくはない理論でも、現実との折り合いを付けられない、こころの表面を上滑りするばかりの怒鳴り声が、ひとの耳を仮借なく襲う。崇高なはずの「思想」は、すべて怒鳴り合いの中で応酬される。あるのは、対話ではない。今でも平壌(ピョンヤン)からのテレビ放送で見ることのできるようなアナウンサーによる演説調のアジであり、背筋に力が篭って堅くなった人間の発する黒い声音によって撃ち出される単語の矢である。

この「熱さ」はあたかも幕末の志士たちが登場するドラマや映画などでも描かれてきた、相互に斬ったり斬られたりする若者の群像ではあるのかもしれないが、青春を描いた映像だとは言いたくない。その上滑りする抽象的な言語に限っては、ただ暴力的に繰り返されるばかりで、ほかの若者を真に考えさせ、理解させることができない。

現に、「まったくわかっていない」と指導者に怒鳴られる若者たちを、本当に分からせることのできる、実感と現実感を伴った言葉と経験を、指導者を含め、誰もが持たない。(その指導者だって指導される側とほんの数年の歳の差しかない。)

したがって、こうした純粋な思想的な展開について行くことのできる極一部の(理屈っぽい)人間だけが、かろうじて「わかっている」のであり、「指導的立場」に居座ることができる。そして、「わかってしまった者」は、自分のこれまでの「間違い」を認めないわけにはいかず、認めて自己を批判し自己否定する者は、負けを認めて「思想的」にも指導者に従わざるを得ない。「間違った者」は、それを諒解すれば「正しい者」に従うのが思想的に「正」となる。かくして支配と被支配、指導と被指導が、思想という純粋観念の力を得て実現されるのである。

一方、「わからない者」は、どこまで行ってもわからない自分についての「総括」だけを求められる。思想をわからない者が「自己を総括する」などということは撞着以外の何ものでもない。そのようなことは理屈上不可能なのだから、わからない者に総括を求めることは、教育に失敗した教師がわからない生徒に反省を促しているようなもので、まったくもって理屈に合わないのであるが、指導者の絶対的立場は、そうした自分に向かう批判だけは狡猾に封じる「へ理屈」を持っているのだ。このようにして「総括」の意味は次第に失われて行く。総括を求める指導者たちは、「自分で答えを出すのが総括だろ」という理屈によって、真の指導や教化の責から免じられてしまう。

どこまでも「わからない」メンバーには、言葉による執拗な批判と人格の否定、そして、間もなく、生命を滅ぼす身体的な暴力が待っているのである。これは、北朝鮮の強制収容所やカンボディアの「キリングフィールド」、文化大革命時代の中国、そして戦前・戦中に憲兵が大威張りで闊歩し、隣組が相互監視をしていた日本、などなどに起きたことではないのだ。これは70年代に、われわれが日常を生活していた隣で起きていたことなのだ。



「正しい者」が怖い。この感覚は、自分の中では長いこと封じ込めて来たものだ。正しい者を怖がってはイケナイ。正しければ正しいほど、それは克服され乗り越えられなければならないから、ということもある。だが、このバランス感覚によって「正しい者」が自分に近づいて来たら逃げたり避けたりしないで、可能な限りその「正しさ」を問うという姿勢に自分を向かわせたのである。健全な相対化を旨とする人間にとって、したがって「正しい者」を怖がらずに、近づいていって検討してみるというのは、方針としてむしろ必要なことであった。

だが、ある集団の閉塞的な状況において、「正しさの感覚」の飛び抜けた者は、カリスマになる可能性があり、それの正否を問う存在(批判者)がいなかったり、批判者を封じ込めたりすることに成功すると、その閉鎖世界の中で「まったき暴君」となる。自分に正義があるというその恐るべき感覚。それは若くて純粋な時期の若者にこそ起きがちなことではあろう。40の訳の分かったような中年よりも子供の残酷さに近いものを彼らは持っている。特に、異なる世代がおらず、したがってさらに上のレベルから批判できる存在がなければ、「革命の理想」というものは、暴力的手法を得て、現実のものとなり得る。成功した革命とは、案外こうしたものかもしれない。

「正しい者」の行為の総ては、達成されるべき理想や目的のための手段となり、いかなる手段も正当化できるという思想に到達し、すべての特権と絶対的な権力を手に入れる。それがたったの30〜40人足らずの若者の集まりであったとしても、その絶対的権力に逆らうことはできないという空気が醸成され、それに対抗する勇気を失えば、殺人やリンチでさえも「理想へと近づくための方法」となり得るのだ。これは倫理的な社会(理想)を実現させるために倫理を踏みにじっている自己の立場を容易に忘却する。

自己批判と総括とを迫られ、呵責なき暴力を振るわれ、「こんなこと、意味あるのか? それが革命なのか?」と断末魔の中で叫ぶ男たちは、完全に秘境の地で世間から隔絶された「軍事訓練」のキャンプの中で、口を封じられ、まさにその素朴な疑問ゆえに、集団リンチを受け、死んで行った。ほんのちょっとした指導部への疑問でさえも、すべて「革命的でない」「自己の共産主義化が足りない」などの理由で圧殺される。かくして少人数のキャンプが恐怖政治となる。理想に燃えた若い青年たちの夢が、かくも脆く修羅場と化す恐ろしさ。この恐ろしさは楽しめる怖さではない。彼らの純粋な「正しさの感覚」ゆえに、そして勇気を奮えないために許される「狭い世界での専制政治」ゆえに、まことに後味が悪い。だが、この後味の悪さから逃れようとしても、描かれているものが虚構ではなく、われわれが生きていたこの世界において、現実の物語として起きていたのだという事実性から、われわれは逃れることができない。



確かにこの映画は、左翼活動家の愚かさを広く伝えるための手段として用いられてもおかしくないが、国を想う右派活動家によっても同じことは起こりうるし、起こされてきたことだ。「正しさの感覚」への無批判な信頼と、声を上げるべき時に上げないわれわれの「勇気のなさ」が揃えば、いつでも、何度でも、この地上に「実現してしまう」可能性を持つ出来事なのである。悲しいことだが、これが「人間性」なのである。
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2007-11-03

【映画】Crossing the Bridge - Sound Of Istanbul

Crossing the Bridge
Orhan

今夜は、『タッチ・ザ・サウンド』ではなくて、『クロッシング・ザ・ブリッジ』(サウンド・オブ・イスタンブール)だった。下高井戸シネマのレイトショーにて。内容はイスタンブールからの「今の音楽紀行」である。狂言回しならぬ現場の立会人・兼・飛び入り音楽家は、インダストリアル・ミュージックのハシリだったドイツの問題児バンド、ノイバウテンのベーシストである。だが、彼がそれ系の音楽家であることは、今回の音楽紀行にひとつの「傾向」を与えていることは確かだ。その視点は、「今のトルコの伝統音楽に何が起きているか」ではなくて、「今のトルコのミュージックに何が起きているか」なのだ。

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2007-06-27

『バベル』の塔は「人間の愚かさの象徴」だったか?

babel tower
上掲の拙論見出しに対する私の考えはこうである。

「バベル」とは人間が互いに協力し合って「組織的に神に近づこうとする」ことに対する、人間に対する神自身の直截な怖れと嫉妬を象徴するものであって、映画紹介のネット記事のあちこちで「まとめ」られているような「人間の愚かさの象徴」などではない。とんでもない間違いである。バベルの塔は、人間の限界についての象徴ではあっても、愚かさの象徴であったことはない。これは強調しておいて無駄ではあるまい。

むしろ愚かなのは人間をそのように作った神自身ではないのか?という人間からの反問... そして、一見乗り越え難く立ちはだかる言語の壁という、神からの挑戦として人間に科されたペナルティは、映画で描かれている程度には今日でも常に乗り越え「られよう」としている。

そして物語の端緒となる被造物・人間によるひとつの行為、あるいは国境を越えて言語の違いを克服しようとするひとつのコミュニケーション上の試み──モロッコに赴いたひとりの日本人の置き土産──が国境を越えて侵犯する別の侵略者に対する「牽制球」となり、それが連鎖的に世界各地の家族をバラバラに分断する(はず)という、神によって目論まれたドミノセオリー的な「次のバベル」。そんなケイオティックな宿題となるはずだった。その端緒となるべき行為の主は、現代のバベルたる絢爛たる摩天楼乱立する東京を根城とする。

babel leaflet
実は神による人類史への初期介入、すなわち言語の意図的な混乱が、人をして「天にも届くような」一本の高い塔を建てることを諦めさせるどころか、世界中に異なった種類の塔を乱立させることになった。競い合って。

かつての神の狙いが失敗したように、この度も神の意図は覆される。この度の人間のささやかなる勝利は、確かに「ある若い命」を引き換えに得られたものだ。だが、神の挑戦は家族の絆をより強いものにすることにしか働かない。神の意図はまたもや裏切られるのである。

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アレハンドロ=ゴンサレス・イニャリトゥ Alejandro González Iñárrituという長いメキシコ人名を見て、すぐにピンと来た人は、余程の映画通か、映画業界人か、さもなくば遠くない過去に作品のひとつを観て印象に残っている人か、はたまた、つい先頃、映画『バベル』を観たばかりの人かもしれない。いや、映画を見ても監督名までは失念している人も少なくあるまい。かくいう自分もなかなか覚えられなかった。

イニャリトゥの近作のひとつ(というか、彼は割と最近出てきた人のようだ)である、なかなか挑戦的な問題作と呼びたい『21g』(にじゅういちぐらむ)という映画をビデオで観て、その監督がイニャリトゥであることは最近知ったのだが、現在(それほど盛り上がっていないが)、それなりに話題になっている大作風『バベル』も、イニャリトゥが監督しているということをたまたま知ったので、観に行ってみようと思ったのだ。(ツレの“誕生日月割引”を利用してみたかったのもあるし...)

足を運んだのは吉祥寺プラザというバウスシアターの裏手に当たる目立たない映画館で、全然混んでもいない。でも本格的な大画面上映館である。18:50からのナイトショーのみ。

予想に違わないと言うか、劇場映画としてシアターまで足を運んで観てみる価値のある作品であった。自分の認識の底の浅さのせいであるのは言うまでもない。だが、メキシコはアメリカと国境ひとつ隔てて対峙している「北米」の一国だが、音楽と料理以外はいまひとつ知られていないような気がする。実際、今となってはイニャリトゥ以外、メキシコ人映画監督の名前を挙げよと言われても思いつかない。

同時並行的に異なる場所で起こる出来事(しかも相互の関連性がなかなか見えない)を映像で追うばかりでなく、そのタイムラインさえもズタズタにして再構成した『21g』は、シーン断片の集積がだんだんにひとつの事件の像を結んでいくというもので、その善し悪しはともかくとして、ストーリーそのものの力というよりは、編集テクニックにきわめて偏重したともだった印象もある。これについては後述する。

また本作もこの前作同様、きわめてシリアスな内容で、不条理を含むきわめて後味の悪いリアリズムを映像を提示する、そんな映画作りであったが、その同時並行的に世界の各地で起こる事件の相互関連性が徐々に見えてくるという手法は、この度の『バベル』でもおおむね踏襲されている。だが『21g』でフォーカスされていたような「自動車事故が引き起した連鎖的な悲劇」と、人が人と結びつこうとする「コミュニケーションに渇する心の動き」というテーマが、この度は、詰まらない理由で「暴力装置」の引き起したひとつの事件の悲劇の連鎖、そして言葉が通じない(それは単に言語の相違を乗り越えられないということだけでなく、同じ母国語を共有する者同士でも「通じ合わない」)というコミュニケーション上の断絶、そしてその回復、あるいは回復への端緒を描く。

「重くもどかしい」という評をどこかで見たが、それをストレスとして感じる鑑賞者がいるということは、監督の意図は成功していると言うこともできるだろう。まさに通じ合えないという現実世界のもどかしさがこの作品のテーマのひとつなのだから。

モロッコ、合州国、メキシコ、そして日本。と、4ヶ国同時並行的に進行するドラマであるが、冒頭のモロッコの高地地域の空気と羊飼いたちの生活、そして眼下の砂漠地帯を横切るアメリカ人観光客のバス、という異文明者による領域侵犯という違和感が、きわめて興味深く描かれていた。そしてどこにでもあるような思春期の少年(少女)の持つ性的好奇心の目醒めなど、思わず眼を背けたくなるような赤裸裸で本音の映像表現もが混ぜ合わされていて、ドラマのリアリティを否応無しに高めていた。


■ 編集(時間操作)に偏重した映画作りについて

これについてはその正否を判断できる立ち場にはない。だが、映画が演劇的作品の延長であると考えたとき、時系列の編集による改編というのはドラマツルギー(作劇術)の王道ではないことになるかもしれない。その点で言えば、例えば黒澤の『椿三十郎』のように(あるいはきわめて多くのドラマがそうであるように)、ごく例外的な回想的場面を除いては、事件の進行を時間通りに追う形で進むのが最も保守的で正統的な方法と言って差し支えはないだろう。

だが同じ黒澤作品である『羅生門』のように、同じひとつの事件でも視点によって全然捉えられ方が違うということを描く不条理劇の場合、ドラマ自体が回想によって構成されざるを得ず、時系列の操作というのはきわめて必然的に選択されるべき手法であるということになろう。あるいはドラマ全体が大きなひとつの回想であるという手法は映画でも劇場演劇でも使われる常套手段だ。

そうした中で、イニャリトゥの本稿で言及しつつある(少なくとも)2作品で採られた編集による時間操作というものは、『バベル』においてはやや後退し、映画制作上、より必然性を帯びてきた(結果として観やすい)ということができるだろう。『21g』は、時間系列的に全てのシーンを並べ替えつなぎ直したら映画そのものがおそらく成り立ち得ないほど編集技術に依存していることができる。だが、全体像を見せず、鑑賞者に常に想像し続けることを強いるという「作り」は、鑑賞している2時間の間、大きな緊張感の中に鑑賞者を落とし込むことになり、逆に言えば、「きわめて映画的な作りになっている」とも言えるのである。これほどブツ切りなシーンの呵責なき連鎖というのは、おそらく劇場演劇によっては再現が難しいであろう。


■ 音について

ネタバレになるのでここでは詳述しないが、観賞後、大いに対話や議論を刺激する類の内容であった。そして忘れてはならないのが、サウンドトラックの秀逸さである。これは、映画のDVD以上に、確実に消費意欲を刺激されるものであったことは忘れずに付け加えておこう。音楽だけでも語るに値するぞ、これは!

もうひとつ付け加えるなら、日本が舞台になったシーンのバックで掛かっている音楽というのは、一聴して西洋楽曲なので、それによってどうしてそう感じるのかは分からなかったが、その音楽だけで強く日本を連想させるムードを持っていた。これはどういうカラクリになっているのかと思って最後のクレジットを観たら、日本のシーンについては音楽担当が坂本龍一になっているのである。彼の音楽をそうと知らずに聴いても十分に日本を(あるいは日本映画のムードを)連想した自分がいたのである。


■ 最後に

いずれにしても、ブラッド・ピットやケイト・ブランシェットといったハリウッド系俳優たちを性格俳優として配置するという大胆なキャスティングをしたイニャリトゥの「今後の変貌が楽しみ」なのである。『バベル』は文字通り国際色溢れる大作になってしまったので、今回の作品の興行成績次第では「次がない」可能性もあるが、そうならずにイニャリトゥ特有のテーマを独自の方法で追求していって欲しいものである。今度はもっとメキシコを観たいなどと夢想しているのは私だけだろうか?

本作をアメリカ映画だと呼んでいる人がいたが、私はその考えに賛成しない。



19:56:03 - entee - TrackBacks

2007-04-30

初恋映画としての映画『パフューム』
あるいは「ある救世主の物語(The Story of a Savior)」

論じるべきことがたくさんある映画だ...



プルーストの「紅茶に浸したマドレーヌ」のエピソードを牽くまでもなく、匂いというのは記憶の脳と濃密に結びついている。匂いはわれわれを遥か彼方まで飛ばすものだ。また鼻の発生学的な由来から嗅覚と生殖器との繋がりを強調する人もいる。鼻と生殖器はそもそも一体だったが、ある程度成長したひとつの胚の箇所からパカッと二つに別れ別れになったものだというような話である。だが、匂いが性的な連想を強く促す(というか、直接下半身に作用する)らしいということからも、それは正しい可能性がある。正しいとしておこう、ここでは。

Training

『パフューム』の主人公・グルヌイユが殺人者である(特に猟奇的殺人者である)という前提をここでは一旦忘れて、映画で描かれたような一連の出来事がどうして起こったのかというのを考えてみよう。想像の翼を広げることが、あらゆる芸術の名にふさわしいものに対するわれわれの態度であるべきだからだ。

孤独*がテーマの一つであることは、監督のトム・ティクヴァ自身が語っているからそれは一つの捉え方であろうとは思うが、「殺人者は孤独だ」というのは「孤独者は孤独だ」と言うくらい、同義反復で何も語っていないに等しい。映画監督は映画を監督をするのが仕事でそれを説明するプロではない。彼の「説明」は映画の完成とともに終わっているのだ。だから監督自身の言葉を牽いて説明した気になるのは止めよう。それに孤独者が全員殺人者になるわけでもないだろう。

* 主人公が善悪の物差しを手に入れる機会を逸するほどに孤独であったという意味でなら、彼は真に意味で《孤独》であった。そして孤独の意味とは本来そこにある。グルニュイニュはそのような意味で《孤独》であったが、孤独感に苛まれていたというようなことはない。だから「孤独感」が彼を殺人者に仕立てたのではなく、単に殺人がいけない(死んでしまえば、相手も自分もその素晴らしい「匂いの世界」が終わってしまう)ということを学ぶきっかけがなかっただけなのだ。

超・能力的な嗅覚の持ち主が主人公であり、映画の中ではグルヌイユの香水調合師としての成功が後に描かれることになるが、冒頭、年頃になったその彼が、初めて女の甘美な匂いというものに遭遇するのが、すべてのドラマの発端である。

最初の女との出会いが、匂いと結びついて起きたのが彼にとっての不幸であったのかもしれない。これは年頃の人間にとって本来なら「初恋」とも言うべき、わめて当たり前の出来事であるのだが、それは視覚的なものでも聴覚的なものでなく──グルヌイユのその能力を考えれば当然のことながら──「嗅覚的な邂逅」として起こった。我が物にしたいという熱烈なる欲求の対象は、写真のような「メディア」に固着できるような視覚情報ではなかったし、あるいは磁気テープに録っておけるような声のような聴覚情報でもなかった。「また逢いたい」の対象は匂いであったからだ。しかもそれは生きていればこそ、その生身の身体から体温と共に立ち昇ってくる生命的なまさに“エッセンス”であったのだ。

しかも、その初恋は「生殖の何を」知らぬ時期の漠たる憧れの、視覚的な対象として脳内に取り込まれたのではなく、生殖と直接結びついた嗅覚情報として彼の下半身を直接貫いた筈である。つまり「初恋」と同時にそれは彼の新たな生命へのスイッチを入れてしまった。彼の生い立ちや社会状況が招いたのは、生殖能力的な発育の完成と初恋の同時発生である。すなわち、遅すぎた初恋と、嗅覚情報による欲望の明確な対象化が同時に起こったというのが、グルヌイユのケースなのである。

初恋(恋)は通常、その対象が自分の視覚領域(視野角内)に入ってくることを心地よく思うところから始まり、視線の投げ掛けを特徴とする(のだと、私の乏しい、男性としての経験は告げる)。それはやや遠くから眺めるのがほろ苦く甘美であり、対象に余りに近寄ってしまうと大きすぎて視野からはみ出してしまうかもしれないし、あるいは余りに寄り過ぎるとそれは何か妙な匂いを発しているのかもしれないし、はたまた上唇の上には産毛が生えているのが見えてしまうかもしれない。だから(というわけでも必ずしもないが)未成熟な憧れというのはある程度の距離を必要とする。そして、それが視覚領域内に留めておけない時は、代替物がしばらく彼を慰めるかもしれない。だが、嗅覚の強さはおそらく距離の二乗に反比例するのだ。ある地点における対象との距離が1/2になるまで近づけば紅い唇が4倍紅くなることは無いが、対象に1/2になるまで近づけばおそらく匂いは4倍になる。それはグルヌイユを対象へと不慮の接近に陥らせるし、初恋の対象はそうした不意の接近を怖れるだろう。つまり彼には対象へ接近することが必要であり、また対象は彼を怖れるのが必然と言う、いわば針ネズミのディレンマ状態にさせるのだ。

だが、嗅覚領域に入ってくることを条件としなければならないとすれば、それに似たような代替物──ポケットに入れられるような──があり得ない以上、それ自体を固定化して手に入れる以外にない。「固定化」は通常、対象と懇意(ねんごろ)になることが手っ取り早いが、そしてそれは不慮の事故(過失致死に陥ること)によって永久に失われてしまう。それは事故だったのだ。

その後、香りの固定化という探求が始まったとき、法律的には殺人という過程を踏まなければならなくなる。殺してしまうことは手段であって目的ではない。目的は別にあるのだ。やがて狙われることになる娘の父は、聡明なためにこの連続殺人に確たる目的があることを察知する。

香水瓶にエッセンスを入れることは、その代替物の携帯を可能にする。彼は悔恨に苛まれながらも、そのエッセンスの収集を、失われた過去の修復のために行うのだ。だが、彼が手に入れた「もの」はプルースト的な、まったく個人的な記憶の喚起のための鍵であったばかりではなく、万人の「ある錠」を開ける鍵であったのだ。

自己の欲求の飽くなき追求が万人の救済に結びつくという範型(パターン)は、まさにグノーシス主義的な自己に潜り入る探求が、外的かつ全体的な「救済」に結びつくというパターンにも似ている。治癒能力を持っていたらしい《人の子》が、ヨーガの熟達者であったかもしれないという俗説的憶測は、映画で描かれているような「探求者の獲得物」を観るほどに「あったかもしれない」などと思えてくるのである。

面白いことにパフュームの壷は至上権を顕わす「フィニアル」のような形状をしているのだ。それほどかようにその「至上権」を行使する主人公は、救世主然としていたのである。
Poison Finial
参考:頂点の「壷」と「未到の屋根」(クレスト)

ところで副題が「ある人殺しの物語 (The Story of a Murderer)」となっているが、実はこんな副タイトルさえ不要だったのではないかと思う。とりわけ映画においては。むしろ「ある救世主の物語(The Story of a Savior)」でもよかった。そもそも主人公が殺人者であるというのは、「結果」ではあるかもしれないが、彼の本質を言い表したものではないからだ。そして何よりも、彼が殺人者になることをあらかじめ告げられてこの映画を観るのは、その面白味を半減させるものだと思うからだ。

匂いを通じて改悛、じゃない回春を図るというのは、先にも書いたように嗅覚器官と生殖器の繋がりを考えれば納得できることであるが、26カ国の調査対象国中、1年間の性交の回数が最下位だったらしい日本においては、それこそグルヌイユのような人間の登場は「救世」ならぬ「救国の士」となるかもしれない。いや、それこそ「救性主」だ。
As a Savior

【付記】
ダンテの『神曲』をヒントに書かれたというキェシロフスキの遺稿三部作のひとつ「Heaven」を映画化したトム・ティクヴァは、記憶と「過去の修復」といったテーマを『ラン・ローラ・ラン』以来、繰り返している。以前にも書いたが、その『ラン・ローラ・ラン』自体が、「いくつもの過去」という点で、初期キェシロフスキ作品の『偶然』に大きく影響を受けている。今回の映画は、今言及した彼の過去の映画のどれにも増して完成度の高いスペクタクル作品になっている。それは予算その他の事情にもよるものだろうが、そのそうした地位の獲得も、それら過去の作品が正統な評価に耐え得るものであったために可能になったとも言えるのである。彼はそうした幸福を呼び寄せたとも言えるのである。ティクヴァ監督の今回の映画の成功を心から讃えたい。




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2006-05-30

流行ったものは廃れてしまう(栄枯盛衰のことわり)

ダ・ヴィンチの「異端」的傾向や、彼の更なる「天才」の秘密が明らかになったとしよう。あるいはレンヌ=ル=シャトーの秘密、そして「シオン修道会」の実在とその役割などがすべて暴かれたとしても良い。はたまた、イエスは磔刑で死んでおらず、マグダラのマリアと結ばれて子孫までもうけていた。メロヴィング王朝がその末裔だ。そんなことのすべてが史実として“証明”されたと仮定しても良い。

これらの「新たに証された真実」は、ある方面の人々にとっては衝撃的な話だろうが、われわれの人生にとってどれだけ関係のある話なのであろうか? 私はこれらの話の価値を否定しはしない(それどころか相当の興味を以て見守っていると言っても良い)。だがわれわれ日本人の生活にどれだけの関わりがあるのか、そういう視点でその重要性や影響の大きさを、納得のいくかたちで説明をした人がわれわれの周辺にはいるのだろうか? 私はその点で大いに物足りなさを感じるし、不満である。

例えばちょっと「旧聞」に属するが、グラハム・ハンコックが『神々の指紋』によって世間に引き起した波紋は大きかったが、一過性のブームとなって、その終わり頃には、正統派科学者の一通りの反論によって「擬似科学」のレッテルを貼られ、事実上葬られた。検討の余地があったかもしれないハンコックの幾つかの重要な(そしてなにより大胆な)超歴史的世界観を反映した諸説は、皆の記憶からも忘れ去られた(ように見える)。私が予測するのは、今回のキリスト教「異端」的なテーマを元にした「衝撃的」ドラマも、潮の満ち引きのように、『神々』と似たような軌跡を辿ると観ている。爆発的なブームと、まるで嘘のような人々による忘却である。流行ってしまえば廃れてしまう。逆に言えば、流行らないものは廃れもしない。流行ること自体が、数年後の忘却を約束するのだ。

この忘却は、今回揶揄の対象となったカトリック教会などにとってはまっこと好都合な話だろう。彼らにとって、今のこの迷惑千万な「嵐」を当面なんとかやり過ごせば良いのである。あるいは決定的な反論を行うべく準備を整える時間があるやも知れぬ。もちろん「嵐」の前と後が全く同じであるとは限らないかもしれない。何かが変わる可能性はある。この度の「レヴィレーション:啓示/黙示」によって、変わってしまうだけの影響を受けてしまう人間も僅かながら出るだろう。だが、おそらくほとんどの人々の記憶は「ダヴィンチ・コード? ああ、そういえばそんなのが流行ったこともあったね」という想い出の類になるであろうことはほとんど必定である。

ひとつには、イエスが独身だろうと既婚者であろうと、あるいはマグダラのマリアと懇(ねんご)ろであったか、などということや、「シオン修道会」や「テンプル騎士団」のことなど、自分たちの現実感や毎日の生活とはなんら関係がないからである。だから程度の高い、やや知的スリルを伴うミステリー小説の類となって終わることはほとんど疑いの余地もないのである。

贔屓目に見て、それが極上の娯楽的話題を提供することはおそらく疑いがない。だが「米国発・仏国(カトリック)への揶揄」という怨嗟と濃厚なまでに政治的意図を持った映画『ダ・ヴィンチ』が、いかにup-to-dateな“正しい歴史認識”を前提としていても、その意図が悪しければ、その作品が普遍的メッセージに昇華することなどはできない。それは聖なる題材(あるいは疑似・聖なる題材)を借りて行う、単なる俗権的な政治闘争という「象徴世界の別側面」でしかないことになる。それは言ってみれば、見えない「神々」の戦いなのだと言っても良いのかもしれない。だが、それはどこまでいっても、逆説を含んだ人類の苦悩をテーマとする文学にはなり得ないのである。そうした逆説と入れ子状の象徴構造の有無が、タルコフスキーやキェシロフスキ作品がそうであったような意味で、映画作品が他の如何なる娯楽作品からも一線を画させ得るか否かの境目なのである。

だが、私が断っておきたいのは次の点である。私が扱っている《象徴》と人類の歴史進捗の関係、ひるがえって《象徴》と未来の世界との関係、これらに関わる秘密は、《われわれやわれわれの子孫たちの生存と関わりのある話》だと言うことである。『ダ・ヴィンチコード』が裸足で逃げ出したくなるほどの重篤な意味を持った、しかも今のところ流行も廃りもせずに人類の数千年の歴史を生き抜いてきた《何か》についての学問なのである。

それは文明、したがってわれわれの生活や生命と関係があるという意味で、《普遍的題材》と呼ばれるに相応しい内容に深く関係しているのである。

そしてそのようなコンテクストで再読(再検討)することによってしか、この度話題を独占している《コード》の重要性が「われわれの問題」として再認識されることはないであろう。

以上。


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