entee memo

2006-04-30

神のようなもの

は、いるかもしれない。
いや、いるだろう。
いるにちがいない。
そして


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2006-04-25

「異端派」思想の「あれ」を「これ」から区別せよ
聖書関連ニュースとその余波

「ユダ福音書」の翻訳完成、また近々封切られる映画『ダ・ヴィンチ・コード』について、カンタベリー大司教から批判的コメントがあったらしい。
Infoseek.co.jp
UK.News.Yahoo.com

そもそも、「ユダ福音書」の翻訳完成と、『ダ・ヴィンチ・コード』(原作や映画、そしてその周辺を含む)を同列に批判することなどできないだろう。どちらも現・教会正統派からすれば「迷惑な話」であることは分かる。だが、この批判の対象となった二つが等しく「陰謀である」という言い方は、あまりに大雑把だ。われわれは断じてミソとクソとを区別しなければならない(おっと失礼!)。

主張の論理性を鑑みれば、「ユダ」については「まだどのように解釈すべきかどうか議論の余地がある」と落ち着き払って述べ、『ダ・ヴィンチ』の方は、「陰謀史観を元にした単なる小説ではないか」と言うならまだ分かる。だが、両方とも同じレベルで批判するというやり方は、「敵である」という理由で二つの異なったものを同じラベルを貼った袋に纏めてしまうような「非科学的な」やり方である。そしてその「まとめ方」はヨーロッパ中世の異端告発の方法を想起させるといったら穿ち過ぎだろうか。彼らの存立の方針にあわない敵対すると想像される宗派をすべて「異端」であるとか「カタリ派」としてまとめたやり方だ。もっとも今回はわれわれが告発する側で教会がディフェンス側なのだが。

いずれにしても、よく考えてみれば、批判の対象となったこの二つが必ずしも折り合いがよい訳でもなければ、協力し合って現・正統派を攻められるほど相互補完し合うセオリーになっている訳でもなかろう(それについては後述するつもりだ)。「ユダ福音書」派とと『ダ・ヴィンチ』派が、下手をすると相互に「つぶし合う」可能性だって高い。そういう方向に教会側が持っていければ、本当な賢明な策謀家・戦略家になれるのに...

だが、教会側に論争上の「戦略物資」を供給するのが拙論の目的ではない。まず、その「陰謀」と決めつける英国国教会“総本山”カンタベリーの大司教の態度で了解できることがいくつかあることを確認しよう。それは彼らの権威が「揺るがせになる」ということに対して「相当に焦りを隠せないでいる」ということである。もし彼ら自身の信仰が権威保持とは別物であるのなら、何があっても信仰者として動じない態度でいいはずなのだが、映画という強力なメディアによって描かれる「教会の陰謀」というストーリーは看過できないと感じたことになる。それが荒唐無稽でまったくおハナシにもならん「説」なのであれば、まったく意に介さないという態度で一蹴することだってできたはずだ。しかし彼らの見せる「焦燥」は却ってこうした「仮説」が無視できない可能性を持っていることを彼ら自身が却って示唆していることにはなりはしないだろうか?

一方、今後どんどん解読されていく「ナグ・ハマディ写本」群や、次第にあがってくるグノーシス諸派について学術的研究の成果のことを思えば、グノーシス派の「ユダ福音書」の翻訳が完成したくらいで慌てふためいているようではまったくダメなのである。ローマ・カトリック(あるいはイギリス国教会)が神によって選ばれたのではなく、彼らが異端と決めつけ徹底して排除した初期キリスト教の諸勢力との「実力闘争」によって現在の教会組織の基礎ができたということは、すでに解かれつつある「歴史的事実」である。そのようなことを以て、教会の存在意義が問われてしまって(問われてしまうと彼らが考えて)いいとは(教会に対して普段から批判的な)われわれにも思えない。

『ダ・ヴィンチ』については横に置いておくとして、今回の大司教のコメントから了解できることは以下のことである。すなわち、(現主流/正統派にとって)「グノーシス派とは、未だに異端である」ということである。当たり前のことのように見えるかもしれないが、これは真摯な研究を重ねている考古学者や聖書学者からすれば、「真実の一番近くにいる人たちが、その目を閉じていて、その存在に気付こうとしない」如くに聞こえる話ではないか。これはイエスがいみじくも言ったように、「預言者は、自分の郷里で歓迎されないものである*」という事情に近い。「聖書に関する真実は、聖書を正典とする教会で歓迎されないもの」ということになる。

* マタイ 13:57、マルコ 6:4、ルカ 4:24、ヨハネ 4:44に同様の記述がある。例えば、マルコ 6:4には「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこでも敬われないことはない: Jesus said unto them, A prophet is not without honour, but in his own country, and among his own kin, and in his own house. 」とある。持って回った言い方だが、如何に立派な予言者でさえ、「別の場所ならいざ知らず、自分の郷里や親族の間では敬意を持って扱われない」ということである。しかも「そこでは力あるわざを一つもすることができず...」とある。その事情もよく想像できることではある。

個人の内観的思惟によって到達可能なある「知: Gnosis」の存在。現今の教会が認めようが認めまいが、「知」というものの別様態は、すでに2000年以上前にさかのぼれる伝達され得た真理のひとつとして、どんな時間を経過しようとその価値は不変である。しかるに、教会は時々に報告されてくる「個人における神秘体験」を、その時々の都合に応じて受容してきたばかりか場合によっては「聖人」として祭り揚げて来た一方で、時代のそこここで出現した幻視者的な人々の語る言葉の救済的価値の潜在性の方は拒否し続けられるというのだろうか? それは教会が永年に渡って求めてきた「無知の継続」方針と相も変わらない。そもそもキリスト教とは、われわれ人類を危険の縁にまで導く可能性のある、或る種の「知」に対するアンチテーゼであって、それは「別の知」を以て克服するという弁証法を通じてではなく、「選択された無知」によって保守を計ろうとしたある種の「強制」であり「矯正」の運動であった(それ自体の価値というものは別途評価が可能だ)。つまり「権威」と「実力行使」を通して計られた「反知」の運動であったに他ならず、そもそも人間の「知への志向」に対する「反動」というのが本質的にキリスト教会の担った機能なのである。その方針は良くも悪くも功を奏し、やがて文芸復興(ルネサンス)が来るまでの欧州特有の時代(一般的に「中世」と呼ばれる一時代)を形成した。したがって、(権威を保守する側の)「正統派」と「(神秘主義者としての)幻視者個人」との間の「緊張関係」については、G・ショーレムもその著書において詳しく述べているが、この現代社会においてさえ、そうした旧弊なる緊張を教会の側は延長しようとしているように見える。それが果たして最も賢明な選択と言えるのであろうか。

現在の「正統」としての教会は、いかなる教会であろうと(ということはローマ・カトリックであろうと、英国国教会であろうと、プロテスタント教会であろうと)、「教会を救済の唯一の手だてである」と主張する限りにおいて、虚偽を免れることができない。一方、歴史的存在としての教会の価値とは、彼らの主張する「正当性」にあるのではなくて、「反知」を実現化させるための注意深い「知の保存」という点においては揺るぐことがなく、そのために現代においてその再現能力を持つ。いわば「知の番兵」としての教会の司教たちが何を守ってきたのか、その実体を今こそ再認識すべきではないのか? それが可能な時、彼らこそが「知の真の伝達」という秘教に属すべき「真知」の顕示を成すべきものとして、再出発が可能なのである。

ということは、今こそ本当の意味で教会が真の知恵を人類にもたらし、「知の再生」を果たせるかどうかの瀬戸際にいることになる。これはおそらく最後のチャンスであろう。彼らが築いてきた「権威」を守護することが彼らの生存の目的なのか。そうではなく、彼らのアクセスできた幾つかの秘教的知恵、相続してきた象徴的表現物や作法、そうしたものが今からでもある一定の個人によって「読み解かれる」ことを待って、それを果たした時に自滅を実現できると考えられる。しかるに、現代のグノーシス派を「敵」と認知して排除することは真に賢明であると言えようか? 彼ら正統性を主張する様々な教会(旧教、正教、新教、ユダヤ教)の間にはエキュメニカル運動といって宗派を超えたユダヤ=キリスト教の大連合を成し遂げようという努力さえもあるのであるが、「教会」という形を持たない「知」「思想」「内観的(直感的)悟り」といったものと連合することはできないというのだろうか?

以上が、グノーシス思想に当てられた新たな光と教会との共存の問題である。

一方、『ダ・ヴィンチ・コード』について。ダン・ブラウンの「フィクション」にしても、ブラウンを訴えたネタ本の著者マイケル・ベイジェントとリチャード・リーらによる『イエスの血脈と聖杯伝説』にしても、これらがわれわれにもたらす“世界観”とは、「人間の組織」としてのキリスト教会の成立時期に関する「史実」をくつがえすものではなく、主としてその役割は、聖書のもたらす物語そのものの「史実性」に関しての異説であるに過ぎない。以下についてはすでに何度か言及しているが、われわれは聖書に書かれている事自体の「史実性」に最大の関心がある訳ではない。歴史的事実としての「イエスの実在」や彼自身に実際に起きたこと(それはじじつ磔刑であるかもしれないし、狡猾にも磔刑を逃れたことであるかもしれないし、人間としてのイエスは、結婚さえもしていたかもしれないし、それどころか子孫を残したかもしれない、などなど)、せいぜいそうしたことが、『ダ・ヴィンチ・コード』や、その周辺図書群がわれわれに「驚くべき事実として」提供できることであろうし、それ以上でも以下でもない。だがそのような「史実かもしれない」ようなことに、《聖書が指し示す象徴的内容》以上の重要性があるとの主張の価値をわれわれは認めないのである。その意味で、現状のような教会の宗教にとっての正典たる聖書が、人間の手による厳密な取捨選択を経たものであるにせよ、そのために「聖書の現状のままで保持し得る象徴的価値」というものは一向に差し引かれないのである。

われわれの立ち場は、教会についての真の問題が信仰そのものにあるという立場を取らない。むしろわれわれの認める重要性とは、「信仰された」ためにおよそ2000年の後にまで伝えられることとなった物語の、意味の多重性であり、それらの言葉が字義通りに伝達する以上の《象徴的意味合いの指し示すこと》が、現代を生きるわれわれの生存と関わりのあるという点において、さまざまな諸神話や秘儀伝授的伝統の果たした役割と本質的に変わるところがないばかりか、キリスト教の新約福音書の伝えるものが、現在進行中の世界史上の出来事をあたかも予定するかのように記述されているものとして読めること、結果として「生きる神話」なのだという事実を優先的に重要視するものである(そしてわれわれが皆、後に神話となるきわめて意味深い時代を生きているという自覚と知識を重要視するのである)。その点で、われわれは教会に通い、その権威に服従する熱心な信仰者達にとってとは違う意味で、キリスト教とその原典の価値を認めている者たちである、と言うことはできるかもしれない。グノーシス思想の研究とは、その行為自体がグノーシスへの接近を意味している。

結論を繰り返すと、この度のカンタベリー大司教のコメントは、権威として存在する教会にとってきわめて重大な過渡期におけるひとつの態度表明であり、「陰謀」と決めつけられることによっては解決し得ない二つの「知」の間の緊張状態の再演につながりかねない誤りを含むものである。そして今回の非難の対象となったふたつの出来事自体が、全く別の次元において論じられるべき意味を持ったものであるということに気付かぬほど、彼らは不勉強であり得、無駄に焦燥に駆られている可能性があるということを意味する。

彼らが世俗において持続的繁栄を望み、その上で、皆様からより一層の尊敬を勝ち取り得るその戦略とは以下の方法だろう。

「こうしたニュースがきっかけになって、みなさんの教会とその深淵なる歴史に対する関心が再び高まり、そればかりか、研究資料として教会により多くの方々が足を運ぶようになって頂ければ言うことはございません。今度の日曜日はぜひ足をお運び下さい、我等がキリスト教会へ」。だろ! もっと有能なスポークスマンを雇い給え、祓い給え、清め給え!

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◆ 資料 ◆
「ダ・ヴィンチ・コード」「ユダの福音書」は陰謀=カンタベリー大主教が批判 (AFP=時事)

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23:34:55 - entee - TrackBacks

2006-04-21

「われわれは技術を提供するだけだ。この技術をどう使うかは、○○○次第だ」

なんというムシの良い言い草だろう。そんな論理が通用する程、われわれは大企業にとって単に「見下げられた食い扶持(ブチ)のネタ」にすぎないのだろうか。世間にこのような言い方をする技術者がいる限り、技術開発者自身が「無責任」との批判を受けたとしてもしかたがないと言わざるを得ない。いやはや「御開発者」には心から「お愛でとう」を言いたい。

今回のニュースに関して「○○○」には、「放送局」という単語が代入される。すでにご存知の方も多いと思われるが、これは「コマーシャルを強制的に視聴者に見せる技術」を提供する開発社のCommunication局代表 (Caroline Kamerbeek @ Philips Electronics*) の弁なのである。確かに、自分は開発された技術そのものにあまり関心がない。テレビの世界がそのようになったらなったで、視聴などしなければ良いくらいに思っているからだ。だが、むしろ以上のような言説を成す技術者とそのスポークス・パーソンの「精神構造」と、彼らの目覚ましいばかりの「想像力の欠如」方に興味を覚えるのである。

* われわれにはPhilips社製品の不買運動を展開する選択がある。それこそ今や、アコギな企業に対して消費者の「意気込み」を見せる正念場かもしれない。

この技術は断じて一般視聴者のためではなく、コマーシャルを提供し強制的に視聴させることをもくろむ放送局などの大企業の利便に資するものでしかない。

敢えて言うまでもなく、どんな技術も「利用されること」を前提としている。単なる自然科学的な発見というのではなく、人為によって何かを「開発」したからには、サービスや製品という形で広く用いられることを願っている。そして今回の「コマーシャルを強制的に視聴者に見せる技術」というのも、具体的利用業者を想定してのことであり、利用と金儲けに供されることを期待しての開発によって実現されることを否定することはできまい。

そもそも、そのような商業的技術によって金を儲けたとしても、開発者の彼ら自身がテレビの一般視聴者の一人であることを忘却しているのではないか、と想像される。それとも開発者本人である彼らには、その機能を自分が視聴する時に限ってキャンセルする「裏技」でも仕込んでいるのであろうか?(そのようなことがあったとしても驚かない) それとも次世代技術の開発に忙しく、「テレビを見る」などという前近代的な気晴らしなどからは彼ら自身が縁遠いのかもしれない。

ここで別の単語を代入しよう。「われわれは技術を提供するだけだ。この技術をどう使うかは、<時の権力者>次第だ」。これは、あらゆる種類のひとを殺傷し文化を破壊する軍事技術を開発してきた技術者たちが自己弁護する時に使いそうなフレーズだ。だが彼らが、あるいは彼らの子孫が、その「利用」による影響を被らないとどうして言えるのであろうか? 技術開発者は、開発の成功によって、将来子々孫々に何がもたらされるのか、というビジョンを持たないことが、開発者当人の「理念無き利益追求の企業の論理」によって免罪されるのだろうか? 例えば、20世紀半ばに核開発に手を貸した技術者たちの幾人かが、その行為に対してすでに責任を感じ後悔の念の表明をしている歴史があるにも関わらず。


20:41:43 - entee - TrackBacks

2006-04-19

滅び往くものに栄光有れ:
自己解体を実現した《マニ教》を讃える

万物は滅亡することにその究極目的がある*、とは河上肇が言った言葉だ。
* 正確には「それ万物は皆なその自滅を理想とせざるものなし。」である。

またかくも言う。
「(略)能く考えて見れば、病院は病院自身の滅亡を理想とすという事、言奇なるに以て実は奇ならず。学校も同じ事にて、無教育者を全くなくするがその終局の理想なれど、もしその終局の理想にして実現せられ、世の中に教育を受くる必要ある人の全くなくならんには、学校は乃ち廃止されざるを得ざるなり。裁判所といい、監獄といい、法律というの類、推して考うれば、皆なまたその自滅を理想とするにあらざるなし。」

これらの言葉に初めて出会った時、その大胆な表現で展開される主張と、読んでみれば全くその通りとしか言いようのない、端正な論理に驚くと共に、深い共感を覚えたのは、自分の中でまだ記憶に新しい。その時に感動は一度書いたことがある。

言うなれば、「滅びる」とは、目的を持って組織化されたものが、目的を達成して自らの存在を解消するということである。理想を言うならば、人間の組織としてのあらゆる団体(場合によっては個人)というものは、その究極の目的は「自滅」にあることになる。その点で言うと、自らの主張する教義が普く伝えられその任を全うしたら、宗教団体でさえ「自己解消」するのが最も潔い「本来の在り方」と言える訳である。言い換えれば、「宗教が栄えている」とすれば、医療、警察、司法、その他の必要悪と同様に、宗教は人々の不幸を解消していないということになり、その任を全うしていない。すなわち、全く「誇るべきこと」ではないことになる。

◆ ◆ ◆


などと、ここまで書いていて昨日の深夜辺りアップする心づもりだったが、ライヴのあと盛り上がったりしていて、そうはいかなかった。すると今日、内田樹がいみじくも似たようなことを「両親」の機能と目的ということに絡めて論じていた。全く偶然だが、彼も同じような時期に同じようなことを考えていたことになる。内田樹研究室

内田は河上肇と全く同様に...
>> 医者の理想は「病人がいないので、医者がもう必要でない世界」の実現である。
警察官の理想は「犯罪者がいないので、警察官がもう必要でない世界」の実現である。それと同じように親の理想は「子どもが自立してくれたので、親の存在理由がなくなった状態」の達成である。(中略)子どもが成長することは親の喜びであり、子どもが成長して親を必要としなくなることは親の悲しみである。喜びと悲しみが相互的に亢進するというのが人間的営為の本質的特性である。<<

と語る。特に、最後の1行が効いている。そこまでは考えが至らなかった。そう考えれば人間の矛盾的側面の「肯定」になる。

◆ ◆ ◆


さて、そもそもあらためて何故このような河上肇の言葉に再び思い至ったかの話をしなければならない。それは10世紀頃から13世紀頃に掛けて隆盛を極め、その後カトリックの仮借なき弾圧によってついに滅んだ二神論派の「カタリ派」の歴史について、1冊の本を読了したためでもあるが、今回「カタリ派に先行する宗教」とも想像されるマニ教のことをネットで調べることになったからだ。すると、ネットで見出される解説の中でも、幾つかの秀逸な論述があった。

マニ教とは、3世紀半ばマニによって創始された啓示宗教で、ユーラシアの広い範囲において多くの信者を獲得した「普遍宗教」のひとつであった。その範囲は東は唐時代の中国にまで到達して布教に成功している。だが「聖三位一体論」を奉じるキリスト教(ローマ・カトリック)が力を付けるにつれて、グノーシス的な善と悪(霊と肉)の二元論の立ち場をとるマニ教は、次第に「異端*・異教」として弾圧されていき、やがて8世紀には実質的に滅んだ。だが、特に西方グノーシス主義は、肉体的存在を徹底して否定するので、肉食ばかりか生殖行為すら絶対的に禁止された(とりわけ聖職者の間ではあらゆる生産活動への非参加が厳格に義務づけられていた)。などなど。**

* 『異端カタリ派』の著者、フェルナン・ニールも主張するように、マニ教はキリスト教の内部派閥ではないのだから、「異端」と呼ばれるのはいささかおかしな話なのだ。そもそもひとつの宗教の外部に存在するものを「異端」を呼ぶのは不適切である。例えば仏教が「キリスト教異端派」でないのと同じ意味で。

** 参考サイト:Introduction of Manichaean Religion マニ教概説・序説 @ KHOORA SOPHIAAS


現世的な生の否定、子孫をもうけることの拒否。ここにマニ教が「人間の組織としての宗教団体」として、代々時代を超え、また子孫を通じ永遠に「栄華を楽しむ」ことのできようはずのない、特筆すべきユニークな性向が見出される。そのことは、言ってみればマニ教がその“教義”の中に「自己解体の鍵を潜ませていた」と読むことも可能になるのだ。

マニ教や幾つかのキリスト教異端派(グノーシス主義)は、物質界と精神界の全く厳格な区分(これらふたつは全く異なる起源を持ち、物質界は神による創造に与らない)、そしてゆくゆくは物質界に閉じ込められている「光のかけら」としてのわれわれの霊が、肉体から解放されること(とりわけそれが「集団的」に達成されること)を期待する。したがってそのような宗教であるからには、その壮大なるコンセプト自体をユーラシア中に広め、信者(理解者)をそれなりのまとまった規模で集めたとしても、それがその後も「人間の組織」として永続するということ自体が矛盾となる。だが、マニ教に矛盾はなかった。マニ教に代表されるように、ある特定の宗教や宗派が衰微し、今日の世界で現存しないということは、まさにそれらの役割が全うされた証なのではあるまいかと穿った考えかたをしたくなるほどのことなのである。

実際問題、宗教としてのマニ教は「散会」し、カタリ派は滅ぼされたが、その哲学や世界観はわれわれの《知識》(グノーシス)として残っている。そして、それは何度でも復活する。なぜなら、もはや宗教でも宗教団体でもないために、それを「信仰」するかどうかは個人の自由裁量だからである。したがって、そのマニ教の一時の「成功」にもかかわらず、それ自身が「存続を止めた」のは、河上肇風に言えば、「使い倒され、使い捨てられる」ということであり、内田樹風に言えば、そこに人間としての「悲喜こもごも(喜びと悲しみの相互的亢進)」があったから、と答えることができるのである。

われわれは、廃棄され忘れ去られることによって、自身の存在目的を成就する(もちろん、まず最初にわれわれは有効に「消費」されなければならない)。

マニ教の教義の成就は、歴史の早い時期に姿を消したマニ教徒によって達成されることはなかった。だが奇しくもマニ教が予告したように、現在も進行中の人類が引き起すさまざまな“イベント”の果てに、それは成し遂げられるであろう。「より良く生きよう」「より長く生きよう」とする人類の現世的・卑俗的欲望が、大規模かつ「集合的な浄化」を引き起し、「最期的な聖化」を成し遂げるという最後の大逆転(大どんでん返し)があるからである。

最後に、私は以下の一文に最大の敬意を払って賛同すると言おう。

>> 消え去ったことで、マニ教は、純粋な平和の宗教であったことを、歴史のなかで証明しているのだとも私たちは思惟する。<< KHOORA SOPHIAAS

まさに、「滅び往くものに栄光有れ」なのである。Viva, Cathar and Manicaeism!


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2006-04-03

閑話休題:相互言及する象徴群との付き合いについて

象徴に関する論述は、結局は真の意味で科学的記述にはなりにくい面があるのは否めない。「論理実証主義」をある理論の妥当性を証す態度としてある程度までなら模倣することはできても、窮極的にわれわれにはそれを「可能な限り目指す」ことができるだけである。すでに証明済みでかつ容易に共有可能な命題を元に、更なる新規な仮説の証明を積み重ねて行くというよりは、象徴物自体が本性的に「相互言及的」であり、「A=BとB=Cのふたつの等式が正しいことが証明されたので、ようやくA=Cと断定することができる」というほどに単純な証明の手続きを経ることが困難なのである。象徴主義や図像学において、A=B、B=C、A=Cの等式の全てが正しいことが共時的に諒解されるという体験を通してで一挙に把握されるのが、そもそも象徴的な通過儀礼において期待できる効果なのであり、象徴の顕示するものについての論述とは、ある程度の知識や知性を要求しながらも、多かれ少なかれ、ある段階においては知性を超えた性質の「理解」を扱うものなのである。

それだけではない。文章においてはどうしてもこれらの等式を一斉同時的に並べることができない。そのため一般的な知性にとっては、結局ひとつひとつを個別に見ていき、ひとつひとつを個別の事象として一旦は納得することしか提示者のわれわれにはできないのである。そしてそれを読み解く側も解きほぐされ「一列に並べられた」論述を通してそれに接するしかない。最初の爆発的な象徴理解というものが鳥瞰的であり、複雑に絡み合った一本の紐の作り出す結び目の文様のような一瞬にして把握できる「絵」であったとしても、それを他者に再提示する際にはすっかり解(ほぐ)された一本の「紐」として時間軸上に並べるしかないのである。そしてそれを再体験しようとする者達にとっては時間の経過と供にそれを辿って行くしかないのである。

だが私が敢えて主張するまでもなく、「再提示」の方法に関してこれだけの不利点を抱きながらも、それらの事実を以て象徴関連の記述そのものの価値を一刀両断に判定することは誰にもできないであろう。むしろ論理実証主義的な態度で書かれた果てしなく長い「詩」のようなものであると人々には了解されて味わわれることの方が、その論述者にとってそれ以上の期待のできないほどの光栄であるに違いない。

こうした汲み尽くすことのできない繰り返しに思える個別の事例の積み上げという作業と、それに付き合うことのできる未来の僅かな知性にとっては、それを追い求めるという経験が、いつの日か驚くべき洞察をもたらす可能性があることに期待すべきであるし、追究の努力を厭わぬ人々は、そのための種をこつこつと内面に捲いているのであり、退屈に思えるかもしれない手続きの、ある程度の積み重ねこそが、将来的な爆発的な包括的理解の肥やしになったことがやがて分かるであろう。そしてその時の知的伸展が、あたかも「芥子種の比喩」のように、巨大な樹木の全体を内包したひとつの粒であることとして諒解されるに違いない。そして、ある時は「麦の種の比喩」のように、あるタネは干涸びてしまい、そしてあるタネは鳥によって啄まれてしまうだろうし、またあるタネはついに芽を出すことなく忘れ去られるだろう。だが、<あなた>という肥沃な土地に落とされたそのタネは、やがて大きな収穫をもたらすに違いないのである。

20:25:07 - entee - TrackBacks