entee memo

2006-01-19

芸術に関するコンラッドの思想的断章

Joseph Conrad (1857-1924)

最初に断っておく。私はジョゼフ・コンラッドの愛読者ではない。したがって、これは彼についての詳しい知識に裏付けられてのメモではない。むしろ彼の著書を今後きちんと読んでみようと思わせた端緒のひとつである。今回は、彼の極めて重要と思われる思想的断章を2つの見出したので、それをそれに対する自分の感慨とともに備忘録として残しておく。

“Heart of Darkness”(『闇の奥』という翻訳がある。映画『地獄の黙示録』の原案となった中編小説)を書いたジョゼフ・コンラッドはこのようなことを書いている。時代を反映してか、あるいは英語が母国語でない人にありがちなこととしてか、やや晦渋な表現だが通して読んで頂ければと思う。

All creative art is magic, is evocation of the unseen in forms persuasive, enlightening, familiar and surprising, for the edification of mankind, pinned down by the conditions of its existence to the earnest consideration of the most insignificant tides of reality.

すべての創作芸術は魔術である。それは存在の条件によって最も取るに足らない現実世界の潮汐についての生真面目な配慮のために身動きできなくなってしまった人類の教化のための、啓蒙的であり親しみも驚きももたらすといった説得力のある形式によって、見えざるものを眼前に呼び起こすものである。(拙訳)


ここには「啓蒙的」といういかにも欧州人的な表現が垣間見られるものの、むしろ欧州人自身を含む「人類」(というより、むしろ欧州人をこそ指している)という取るに足らない存在を教化するために必要な何かであり、それは魔法なのだという主張である。人類(西欧人)が自由を失って、束縛された仕方でしかモノを見ることもできないという現実についての慧眼がある。そしてそれはとりわけ西欧的文化の影響をすでに深く被っているわれわれ全体に関わる問題提起として読める。

ポーランド出身のコンラッドが英語で文章を書き始めたのは英国船に乗り始めて以来というから、おそらく17歳になって以降の話だ。もちろんもっと若い時点で英語の研究は開始していた可能性は大だが、コンラッドにとって英語が母国語でないことに変わりはない。彼は英語圏の読者を彼の「英語」を通して魅了したが、その伝達手段としての「英語」はコンラッド自身にとっては第二/第三外国語であった。彼は(われわれ好みの言い方をすれば)「東欧出身者」なのであり、決して西欧を(もっと正確には英語圏を)代表する発言者(物書き)ではなかった。そして欧州人が西洋に非ざるものと邂逅するときの衝撃を、そもそも主たるテーマとしている(らしい)。

東欧出身者が西欧(西ヨーロッパ)に出会う事自体がひとつの文化的衝撃である。これは以前にも取り上げたジョーゼフ・ロートも積極的に取り上げたテーマである。ロートは英語作家ではなかったが、彼の<西欧>へのまなざしは、極めて局外者からのものに近かった。非西欧がすべからく「東洋」であるという思想的定義が可能なら、第二次大戦以前の東欧は、まだ立派に「東洋」の一部のような場所であったのである(西欧化されていないという意味で)。*

話が逸れた。コンラッドの著作は実際に噂でしか非西洋的なものと「出会う」ことができなかったほとんどの西欧人にとって「異質なものとの出会いで生じる心」をあぶり出す極めて重要な意味を持ったものであっただろうし、彼らにとって重要かつ新たなる思惟の好機となったはずである。

現在ではほとんど「英米文学」のひとつに分類されていてもおかしくないコンラッドの英語の小説は、英米人を教化するための、英語で書かれた、非西欧人による文学、すなわち英語圏人にとっての「外国文学」だったのである。

次に上げる一節にも英語の物書きでありながら、想定している読者は外国人としての英米人であったのではないかと思わせるひとつである。

... Art itself may be defined as a single minded attempt to render the highest kind of justice to the visible universe, by bringing to light the truth, manifold and one, underlying its every aspect. (from Preface "Children of the Sea")

芸術そのものは、世界のあらゆる形勢において内在している、多様にしてかつ唯一の、真実に光を当て、至上とも呼ぶべき公正な判断というものの有り様を、目に見える世界の中へと描き出すための、二心なき試みとして定義できるかもしれない。(拙訳)


つまり現実とは異なった次元で実在する真実を垣間見させるものこそが芸術の目的であり、そうしたものを可能にしようというまったくひたむきな努力こそが、芸術行為と呼ばれるに相応しいものだとコンラッドは言っているのだ。

われわれが既に知っているように、むろんこれだけが芸術の定義である訳ではない。だが、真実を垣間見させることが芸術であるという芸術の定義の重要部分に関しては、いわゆるイコノロジーやシンボロジーを評価する立ち場にある私にとってさえ極めて深く共感を覚える部分である。

芸術は、目に見えざる未だ実現されていない何らかの理想像・真実像(イデア)を知覚化するための「二心なき試み: a single minded attempt」であるという表現は、とりわけ感動的でもある。このように芸術の真の目的を知っている人物による創作行為には、表現というものを通して悪しき個人的意図を実現させようというような利己主義は介在しない。

だが考えてみれば、そもそもこうした象徴物の存在というのは、こうした表現方法の文法ともいうべきものを包括的に理解し自覚した者によってのみ操作されてきたのではなくて、極めて広い種類の人間(子供、心身障害者、そしてアマチュアから専門家まで)の表現への参加、そして目的を自覚しない創作活動によって実現化され、また歴史化されて来たものだ。巧緻を凝らさない素朴な表現物が(あるいは全く素朴とは呼べない概念を含みながらも「素朴な表現物として」認識されつつ)古くから伝えられ、われわれの耳目にも触れるのである。

「集団的浄化儀礼」のシリーズで展開して来た「Ω祖型」に関わる図像解釈、そしてその現れ方の構造の解明というのは、それが自明な人々にとってはもはや「解釈」でさえない。まったく揺るぎない「規則」とも評価されるべきものである。一見無関係に思える時間や空間を隔てて存在するあらゆる象徴表現が、同じ<題材>の実在を伝えるためにその形状だけを保存して来たものだ、というのがシリーズを通しての主張だった。

それら表現物の構造が規則(文法)として感得できないのは、それを横断的に把握するための分野超越的な「ある程度」の知識と、最低限の観想がなかっただけなのである。そして、まったく不可解なことは、そうしたことについて集中的に考察して来なかった人々によっても、その祖型的図像の影絵のようなプロファイル(横顔)イメージが、ほとんど強迫観念的なまでに反復的に共有されているという事実なのである。

どのようにしてそうしたことが可能だったのかという伝達の原理(理由)についてではなく、それのエポックに向かって驀進する人類が、留めようのないその<象徴的表現>の潮流の実在と超歴史的「反復」を深い無意識のレベルでは識っているということについて、示唆しているいるのではないかと思われる。そして、コンラッドの言及する意味のものが、芸術の真の目的であると言うなら(そして疑いなくそうなのだが)、まさにこうした象徴的表現こそが芸術の名に値するものだということを彼自身も知っていたということなのだ。

*「欧州」はウラル山脈以西のいわゆる最も一般的な意味での「ヨーロッパ全体」を、「西欧」は「西ヨーロッパ」を指す。「西洋」は漠然とした「東洋ならざるものの全体」、とりわけ白人文化・白人居住地域ないし国土を指すのかもしれない。その点では米国も「西洋」である。少なくとも「西洋文化圏」である。ただし「西洋」という言葉の定義は、場合によって「西欧:西ヨーロッパ」という意味でも無批判に使われて来た可能性がある。また逆に「西欧」が単に「西洋」という漠然とした意味合いで使われて来た可能性もある。だがここではある程度の精度で定義可能な用語である「西欧」は使用できるものとして考え、「西洋」のような多義的に解釈できてしまうような用語をできるだけ排し、特別な意図がない限り使わないことを心がけたい。








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2006-01-16

嫌悪を自覚すること

1/11/2006の日記で内田樹氏曰く、

<< 私は人間が利己的な欲望に駆動されることを決して悪いことだとは思わない。
しかし、自分が利己的な欲望に駆動されて行動していることに気づかないことは非常に有害なことだと思う。>>

なるほど。

曰く、
<< 中国が嫌いな人が中国の国家的破綻を願うのは自然なことである。たいせつなのは、そのときに自分が中国を論じるのは「アジアの国際状勢について適切な見通しを持ちたいから」ではなく、「中国が嫌いだから」(そして「どうして自分が中国を嫌いなのか、その理由を自分は言うことができない」)という自身の原点にある「欲望」と「無知」のことは心にとどめていた方がいいと思う。>>

非常に示唆深い一節だと思う。それでひとつのことを思い出したのだ。そしていつも通り、内田氏の一節のパロディを作った。

(パロディ)
<< ボクのことが嫌いな人がボクの創作活動や経済基盤の破綻を願うのは自然なことである。たいせつなのは、そのときに彼/彼女がボクのことを論じるのは「ボクやボクの周囲における将来の状況について適切な通しを持ちたいから」ではなく、「enteeが嫌いだから」という自身の原点にある「欲望」と「無知」のことは心に留めていた方が良い、そして「どうして自分がenteeを嫌いなのか、その理由を言うことができない」事実を心に留めていた方が良いと思う。>>

これについては、「その理由を言うことができない」と思っているならまだましで、嫌っている(嫌悪や憎悪を抱いている)ことを自分の意識から閉め出して自分に嘘をついている場合、どうしてenteeが嫌いなのかというところまで到達することさえできない。これは実際不幸なことだ。そして、他人(ひと)を嫌ってしまうような自分が嫌いだとかいう、いかにも立派な良心や自尊心が自分の心を殺すのであり、そのためにさまざまな気付くべきことから自分を閉め出してしまう。そして自分にだけでなく、その嫌っている相手にさえも間違ったサインを送っても気がつかない。それが相互理解にとっての最大の壁だと言っても良いかもしれない。

だから嫌いなら「嫌いだ」と言ってもらった方が、様々な問題はむしろ氷解するのだよ。そこから話が始まるのだし。でもほとんどの場合、「話」は始まってもいないし、「始めてしまう」ことに極度の怖れを抱いて隣人さんと上っ面の関わりをしているということなのだ。そういう人々にはそれに相応しい人生があるってことなだけだ。もちろんフィジカルに争って互いに滅ぼしあうのでない限り、よりよい関係が回復するのであれば、いくらかぶつかることが有益な場合はある。そしてそうした隠れた自己をあぶり出すために他者という鏡に自分を映して見るのだ。

まぁ、enteeが嫌いというのと中国が嫌いというのを同列に語って良いことだとも思わないのだが、「何かを嫌っている人」が、いかほどに自分自身を偽り得るのかというようなレベルでは同じことなのだ。かつて私の周りには「名古屋のもの(人)は全て嫌い」と言い切ったひとや「フランス映画は嫌い」とか言って済ませた人、あるいは「B型は直情的で周囲に無関心」というようなひとがいたっけな。どうしてひとつひとつ(ひとりひとり)を個別に見ないで、全部同じ風呂敷に包んで一刀両断できるのか私にはさっぱり分からないんだけど。

一見矛盾するようだが、嫌いなものを嫌いだと認められることは立派だ。だが、個別であるべきものをひとつの袋に入れてそれを嫌いだと言うのは、「中国が嫌い」で済ませられる単純化や偏見と大同小異だ。

スネークマンショー(古い!)じゃないけど、「良いものは良い、悪いものは悪い」。それに尽きる。全ては別個で、ジャンルや国とは関係がない。

23:05:54 - entee - TrackBacks