entee memo

2005-07-30

理想主義は体癖である

理想主義や現実主義は、「主義」と名付けられた言葉だが、厳密には主義ではない。なぜなら、それは思惟、省察、思想、などの「思考の過程」を経由しないからだ。それはむしろその人物の気質に属するもので、行為によって示されるものだ。したがって、「私は“理想主義”的かもしれないが...」という、何かを話す時のその枕言葉は、私の思想や観念的性向とは何の関係もない。それは単に、私の「気質」が、どちらかと言えば、それらの内の一方の側に傾いているということを、便宜的に「主義」という言い方で表現しているに過ぎない。だから、私が「理想主義」という言葉を吐いたところで、それは私が観念論者であることを全く意味しない。私が「観念的思考が必要なときそれを選べる」としても、「理想主義」を口にすることを以てして、私の思想的偏向の実例として挙げるのは不適当なのである。

むしろ、それは私の気質がこの世の現実をそのままそれで善しとして受け入れるよりは、この世に不合理や不条理を「感じ」取り、それが本来的な人間の姿でないと「感じる」性向、そして不寛容、自分の「感受性」というか「気質」を負っている、ということを言っているに過ぎないのである。

一方、カール・マルクスの思想を条件的、無条件的を問わず、その思想を信じたり、共感したりするのはマルクス主義である。同じように、毛沢東の思想を奉じ、それに従う者たちが、毛沢東主義者である。私は生まれながらの「マルクス主義」や「毛沢東主義」という「気質」を想像することが出来ない。それは、現実社会に対する学習と、不条理のメカニズムの研究と、飽くなき省察と他者との議論、闘争などなどを経由して、最終的に到達しうるものだと考える。そして、そうしたものこそが「主義」という名によって表されるにふさわしいものだと思う。つまり、本当のカギ括弧抜きの主義者とは「成る」ものである。私は生まれながらのマルクス主義者は、マルクス以外にはいなかったと思うのである。

いずれにしても、私は「理想」や「現実」を「信じる」思想というものがあるとは思えない。それはやはり「気質」「体癖」の問題なのである。

12:59:18 - entee - TrackBacks

2005-07-28

私の怖れ:エリアーデに捧ぐ

私の人生の7分の5は、「経済活動」のために供されている。1週間のうちの5日間、その「全て」とは言わないが、その“考慮に値する”大部分が、「生きるため」、そして自分自身や周囲が思い込んでいる「社会的責任」のため、そして「飢えたくない」という恐怖のために費やされている。この「ただ生存するため」の活動に割かれる度合いが、これ以上になるということを受け入れなければならない時が来たら、私はむしろ「死」を選びたい。

この世のごく僅かな場所にまだ残されている「聖」の世界との連絡があるうちは、私はもう少し長く息をし続けることができるだろうし、そして、その<事実>を<事実>として受け入れることのできる後世の、わずかな人々に残すことができるなら、「生まれて来て良かった」と心底思えて死ねるだろう。

しかるに、人間存在が、経済的動物(エコノミック・アニマル)でしかない、という人間の精神生活に対する浅薄な理解を疑うことなく、その「動物」自体がその現実の「生の在り方」にたいして、何らの「批判」をも一切持たなくなったとき、そして、その生き方が「人間の生そのもの」であるということに疑念を抱かなくなった「社会人」あるいは「文明人」たちだけに囲まれて、完全に「生産活動への奉公」という「圧力」を受け続けなければならないのであれば、私はこの生を放棄してもいいと思う。

だが、幸か不幸か、そのような“新手”の、そして2000年以上前からすでに明瞭な萌芽のあった「歴史時代開始」以来の、「圧迫」が、なんらの懐疑もないただの生存活動と他者への「闘争」だけに塗り固められるやがて来る時代のほんの「入り口」に立ち会うのみで、この世を去ることができるなら、まだ私は「ついていた」と思って、運命に感謝するだろう。

それにも拘らず、私が身を捕縛され、いつ終わる知れぬ長期にわたって自由を制限され続け、せめて「生産活動への妨害を防止する」という名目で拘束され続けたとしたら、その「生」とすら呼ぶに値しない「自動的な生命」をただ守り抜くためだけに息をし続けてしまうかもしれない。そればかりか、最後のあり得ぬ希望にさえすがって、いさぎよく「絶望する」ことすらできずに、汚物と残飯にまみれて冷たい床を這い回りながらも「あともう一日」を生き続けてしまうのかもしれない。そんな自分であるかもしれない可能性を、私は怖れる。


08:22:49 - entee - TrackBacks

2005-07-08

単純化を回避する「言語化」の試みあり

実にいろいろなことを学ぶことの多い木下愛郎氏のエッセイを読んだ。こういうのを読むと、あらゆる事態を言語化しようという人類の努力(大袈裟!)や知性に希望さえ覚えるのです。

木下氏の論旨をまとめると、こんなことを言っているのかもしれない(私のバイアスが掛かっているのは当然です)。

言葉にならぬものを扱う現場(ここでは音楽療法の現場)で、「言語化」をしなければならない局面がある...。政治的な観点から特殊な分野のありかたを「語ってしまう」ことができる...。確かに、あらゆることの「問題点は政治なのだということを立証している」にも関わらず、政治的文脈から語って事足れりとするのは片手落ちだ...。既存の学術用語などの借り物の言語を操ることで自らを語れると思い込めば、別物によって僭奪されてしまうそれぞれの創作分野(ここでは音楽療法)独自の精神がある...。現場には現場における独自の言葉を獲得(奪還)して行くしかない...。

などなど、実に「なるほど!」と思うことが多い。しかも最近ずっと考え続けているテーマとオーバーラップする部分も少々あった。

以前からもそう思って木下氏のエッセイに親しんでいたが、このようなことを読んでいると、実に「音楽療法士の国家資格化」や「音楽療法とは何か、○○とは何か、云々」にまつわる問題は、あらゆる他の分野(創造的行為)における課題を如実に現す「リトマス試験紙」のような気がしてならない。

こと音楽療法に関しては、「国家資格化」あるいは「目的から逸脱傾向のある権威としてのみ働く協会の存在」という火急の事態が浮上しているために、その分野内での様々な動揺が刺激となって、結果的に様々な議論(本質論、政治的解釈論を問わず)が巻き起こっている。その点ではやや「特殊」かもしれない。さらに、正直言えば「音楽療法」という世界自体は、自分の生きている世界とは別のものだ。だが、そこで起きていることの問題や困難には、どうしたって「一般」的な側面(もっと大袈裟に言うと、人類の諸活動に付きものの「普遍的課題」)があり、やはりさまざまなところで起きている「本質論者が経験しなければならなくなる困難」の典型的雛形があるように思えるのである。もちろん、こんなことを書くことで、「音楽療法分野」にすでに起こっている紛糾を更に複雑なものにしようなどという意図はない。あくまでも私自身にとって「見出される課題」について語ろうとしているだけだ。

ただ、国家資格化の関して一点についてだけ言えば、私自身にも木下氏がまさに指摘するような、政治問題(ある“産業”分野や新規領域への国家権力の介入)として観ようとしてしまう癖(へき)は否定できず、木下氏が語るような「別文脈」の視点によって足をすくわれがちな典型的人間の一人かもしれない(しかし少なくとも自覚はある)。加えて、「いまこそこの課題を音楽療法そのものに取り戻すべきだ」と語っている木下氏の意図からも大いに逸脱してしまうかもしれない。これは、どこまでいっても自分は「音楽療法」という分野の当事者として語ることができないから、ではある。だが、音楽なら音楽、詩なら詩、映像なら映像、などなど、それぞれの創造的分野において(「国家資格化」の問題はないにせよ)当事者がそれらを言葉を介して語り始めるときに、政治的文脈やアカデミックな専門用語なしに「それ自体について独自の言語で語る」ことは容易でない。こうした問題には、普遍性があるし、大いに自分の課題として「そこ」から学ぶことができるのだ。

つまり、自分のやっていることの存在理由(raison d'etre)、に関わる大問題なのだ。そのテーマ自体が言語的なものであれば、言語化に邁進すれば良いだけの話だが、分野における主たる活動が「言語に非ざるもの」を基盤に行なわれているとすれば、「それの価値や意味をみなに分かるように教えてください」という質問や要望に応えるのには、大変な困難の克服と労力が求められるのだ。これに関しては別のエッセイで似たようなことを最近書いた

それにしても困難とは、自分のやっている「専門分野」の「価値」が、やっている本人にしか実は本当の意味で実感できないことにある。むろん、その行為は自己完結している訳ではなくて他者との関わりにおいて成立するものであれば、それをありがたがる人がいさえすれば、その価値の「証明」は比較的容易い。だが、その価値の恩恵を受けている人自身が、その体験を「言語化できない」とすれば、いずれは、「いったい誰がそれをありがたがっているのか、それには意味があるのか」という根源的な疑問に出会ってしまう。例としては不適切かも知れないが、客観的にはほとんどインチキであろうとしか思われないようなイタコのおどろおどろしい「お告げ」でも、その告げる「亡父の言葉」を聞いた未亡人が「救われてしまう」ということは現実としてあり得るのだ。患者(もしくはクライアント)と言われる人が、観測上「癒され」れば、あるいは実験室でその「癒し」を“再現”できれば、治癒の「証拠」が科学的に共有できる。だが、一回性の真実として経験される内的な事件が、まずそのようなものであるはずがない。したがって、なんらかの意味でなら「癒された」かもしれないクライアントが、それを言語化できなかったことを根拠に、療法士のやったことは無駄だったと言えるのか? そうではあるまい。

場合によってだが、私には、同じようなことが音楽や詩や映像作品にも言えるような気がしてならない。極端なことを言えば、それに救われた人が「救われた」と証言しなければ音楽や詩や映像作品には価値がないのか?(否!)あるいは音楽家や詩人や映像作家の存在理由はなくなるのか?(否!)あるいは音楽や詩や映像作品を作る人たちが「協会」や「学会」なるものを組織して、全体的にひとつの価値基準で以て、一挙に、それぞれの存在価値に対して判定が下されるべきなのか?(否!)もちろん、否である。むしろ、人間の怠惰が巣食い、責任の所在が曖昧になりがちな「協会」や「学会」なるものは、総じて警戒すべき対象なのだ。それは分野の多様性や個々の独自性をまったく単純化して言葉で語られることだけを抽出して終わらしてしまう教条主義に至る道なのである。その果てにあるのは、「権威」を必要とする資格を持った一群のプロをこしらえるだろうが、木下氏が自身の<音楽療法>のセッションを通して体験するような特別で貴重な何かをごっそり捨て去ってしまうかもしれないのである。これは、ある種の怠惰なひとびとをうまく篩い落とすかも知れないが、エッセンスすらも捨て去ってしまう。いわば「洗い桶から汚水を大事な赤ん坊と一緒に流してしまう」愚挙に等しいのだ。

ここで、分野における活動家が自らの言葉を獲得して、「存在理由」を明かし、あるいはその体験の内容を共有するということが必要になるように見える。分野によっては、その特有な手法(言語)以外の言語が確立されなければならないことになる。

音楽家が音楽家であることを、音楽以外の言語を以て語らなければならないとは思わない。詩人が詩人であることを、論文で証明しなければならないとは思わない。映像作家が映像作家であることを映像以外の方法で証明しなければならないはずがない。その点については、残念ながらおそらく音楽療法とは根本的に違う。官僚達が考えるように、「療法」と呼ばれるものが、その効果を自ら証明しなければならない、という事情の一面は理解できる。だが、それらは、ある種の必然的な時代の要請によって同時多発的に今日の文明世界のあちこちで起きた。不幸にも、それが外的な何かによってその存在理由を問われたため、「自己説明」をしなければならない状況におかれている訳である。

木下氏にとっての<音楽療法>とは、それ自体が自らを説明する必要さえ認めない表現芸術のようなものであったのだろうと私は想像する。つまり、それ自体がその価値を語っているではないか!という類のものである。体験した当人が、そしてそれをオーガナイズした自分が、その価値を実感しているのに、それ以外の何が必要なのであろうか!という叫びである(誇張があるけど)。だが、それだけで済まされない事情と苦悩がここにはある。

ここにある苦悩は、音楽家が音楽の価値について、詩人が詩の価値について、言語化しなければならないというような「未来的な不条理」を想像すると、やっと了解できるかもしれないものだ。

いずれにしても、木下氏の深い思索と一般と異なる発想が、大多数のそのように考えない人々との間で本質的な摩擦を起こしているのは想像に難くない。彼が現実的な人間との関わりの中で、どのような「語り」を続け、それがやがてはどのような「理解」を得るのか、というのは、私にとっても大いなる関心事であり続けるのである。

閑話休題:
「図らずも」というか、「念願の」と言うべきか、現在あることをきっかけに特定の映像作家の作品論や作曲家の作品論を書き始めており、ある種の「言語化」という課題そのものに正面から取り組んでいる。そのために、木下愛郎氏の文章がどうしても特別な意味を以て自分には意識されてしまうというのもあった。

ただし、私の不相応な「試み」は、ある創作分野の当事者が当事者の言葉で自らを語るということとは、実はまったく180度方向の違う問題なのだ。ここで私が通過しようとしている「困難」とは、具体的にはG・マーラーの音楽やA・タルコフスキーの映像作品など、「すでにもうその価値がほぼ無条件的に社会から受け入れられている」創作物に関してであり、さらにはそれぞれ音楽自体の価値や映像美自体について今さら論じるのではなく、それら「作品」が指し示す外在的なテーマや共有する意味(普遍的題材)が歴史上あり続けたことを敢えて論じようというものだ。理解・共有しうるのだということを証した上で、その具体的内容についても論及しようと考えている。

つまり、多くの既存の作品に関する「言語化」は不可能であって、そもそも「不要」であるという一般的通念にあえて挑戦しようとしているのである。もう少し正確に言えば、音楽や映像作品について語っているようで、その実、それはそれらが共通して取り扱っている<普遍的題材>の実在について繰り返し仄めかそうということに過ぎないのかもしれない。(むろん、今回はつとめてその「仄めかし」のトーンを落とし、これまでになかったような明瞭な方法で書いてしまおうと思っているのであるが。)


22:17:05 - entee - TrackBacks

2005-07-04

「書くこと」は「音楽すること」と比肩できない

私がものを書くのに熱心なのは、もちろん書くのが(喋るのが)好きだという「気質」のせいだと言うこともできる。だが、それは一面的で、一方で、「ダテや酔狂でやってるんじゃないぜ」という気概もあるし、使命感もある。文章の大半は、「書かないで済んだらそれに越したことはなかった!」という思いも強く、それがむしろ書くことの前提だ。つまり、「この世のあり方」に対する自分の反応であり、怒りの感情もあり、また不条理を「不条理だろ!」と言わないでいることに我慢ができないから、というのが書く理由である。これは権利だけの問題ではなくて、「(少しでも何かを)知っている者」の義務でもあるのだ。私がこんなことを書かなくてよい世の中になればその方が良いのだ。でも、そうはいくまい。

だから、私が書くという行為を、「そんな時間があったら、練習したら? ○○したら?」というのはぜんぜん見当違いな見解なのだ(だれも言っちゃいないって?)。それを言うなら、まず、私は練習をしているぞ、と言っておきましょう。それが最初の見当違い。第二に、どこぞで火災が起こっていて火の粉がこちらにも飛んでくる、しかもどんどん延焼しているぞ、という状況のときに、「練習したい」もないだろう(だからこそ、練習だと言うなら「練習したい」じゃなくて、練習「すれば」良いだけのハナシだ。)

「私が書く」というのは、火の粉を払う行為なのだ。世界は燃え始めている。みんなで24時間3交代で絶え間なく消火活動をしたって収まらないような状態になっている。それでも自分の休憩時間に、真っ黒いすすのついた顔のまま、酒でも飲みながら、ギターをかき鳴らしてみんなで歌おう、というような瞬間があってもいい、とは思う。練習していて、その間に焼け死んで良いと言うなら、それは一つの閉じたヒロイズムだし、それならそれで立派だ。でも、消火活動しながら時として自分の笛を吹く、というのが私のおかれている状態だと言っても良い。

実際問題、書かねばならないこと、言葉にしておかなければならないこと、などいくらでもあるし、そのために自分の持てる寸暇を惜しむという生き方だってあるのだ。

それよりも断っておきたいのは、一見私は「書いてばかりいる」ように見えるかもしれないが、とんでもない。書くのと同じくらいの時間を掛けて本を読み漁るし、人とも会うし、ライブにも力を入れる。練習もする。そして映画さえ見に行く(それが<文学>である限り)。そして何よりも、飯を喰うための仕事に膨大な時間拘束されている。それでもなお、「忙中閑あり」で、15分でも手がすけば、その時はもう何かを書いているのだ。10:30pmを過ぎれば練習したくてもできない。拘束されている時間に手がすいても笛を吹く訳にはいかない。だが、電車を待っている時の5分、乗っている時の15分、昼休みの30分、風呂が沸くまでの10分、寝床に就いてから眠るまでの10分、と、バラバラに分断された時間の間隙を縫って「書く」ことはできるし、読むことはできる。

そして実際に、そういう「涙ぐましい努力」の上に私の文章はあるのだ。ということを知ってほしい...と言うか、思ってしまうのである。

とにかく、われわれには時間がないのだよ。

と、これを書くのに10分ほどしか掛かっていないのである。(信じがたいかもしれないが。)


20:00:00 - entee - TrackBacks