entee memo

2005-06-25

「解読」
(散文、あるいは「未来へのシナリオ」の骨格として)

(これは常に推敲の対象である)

曲がった腰を伸ばし
汚れた手の甲で額から汗を拭い
穴の底から照りつける太陽を見上げる
ぽっかりと空いた真っ青な穴の中心から
白い太陽が容赦なく照りつける
男は自分の掌にあるその小さなものを見つめた
それは彼の頭で強いコントラストの影になっていたが
それが何であるのかは、分かっていた

深い地中から掘り起こした粘土板
それを男は見つけたのだ

その小さな石の破片のようなものに
明らかに人の手によるものと思われる「傷の行列」を見出した
だが、そのとき一体誰がそれを読み解きうるものと思っただろう?
だが男にはある確信があった

その発見にもかかわらず
無意味な発掘は続けられた
あらゆる美術品、工芸品の類が地上に曝され
札を付けられ整然と並べられた
そして地中より掘り出された直後の鮮やかな色のいくつかは
ほんの数日で失われるものさえ、あった
だがその中でも絶対に失われないものは
その「傷の行列」であることを男は知っていた

発掘された品物は然るべき場所へと
それぞれ移されて行った
だが彼の興味を惹いたのは
たったひとつの小さな粘土板だけだった

委員会は何を思ったか、その発見を秘密とした
いくつかの雑誌が粘土板の存在をスクープし、取り上げた
だが、それは「噂」であり、その噂は「あれば面白い空想話」として
時とともにすぐに忘れ去られた
発掘が終わると仲間達はそれぞれの仕事場に帰っていった
そして日常生活が戻った

最悪なことに
粘土板は綿を敷き詰めた木箱にうやうやしく仕舞われ
博物館の鍵のかかった金庫室に収められようとしたのだ
彼はそれに封印が掛けられる直前に救い出した
そして出土した詰まらぬ花瓶の破片を綿にくるみ
それを素知らぬ顔して木箱に収めた
男は盗みに成功した
そしてその粘土板は彼のものとなったのだ

傷のような線文字を解き明かすことが男の人生となった
手がかりを与えてくれないその粘土板は彼の前に
大いなる謎として、立ちふさがるのだった

だが彼は決して諦めなかった

それが言葉であると言う直感
そして絶対に解き明かしうるという信念だけが
男の人生を突き動かした
それはほとんど絶望的と言えるような探索の道筋であった

数えきれないほどの本を渉猟し
言語の体系を覚えた
引っ掻き傷に「文法」が存在することに辿り着くまでに
数十の言葉を覚え、文章を組み立てることさえ
できるようになった
失われた古代の言語たちは彼の内部で再び息を吹き返した

彼の部屋はすぐにおびただしい紙の束でいっぱいになった
壁はあらゆる新聞や雑誌の切り抜きで埋め尽くされた
そして寝食を忘れて、夜も昼もその研究に打ち込んだ
男はやせ衰え、頭は知で満ちたが、精神は飢えたオオカミであった
家族は去り、数少なかった友人からの連絡も途絶えた

だが(アレルヤ!)
ある晩、男はその粘土板の文字をついに読み解いたのだ
すべての研究の成果が一つの輪となって閉じたのだ
男は欠けたり摩耗してしまいほとんど読めなくなっている箇所さえ
そこにどんな文字が書かれていたのか
ありありと頭に描いてみることさえ出来るようになった

その夜、彼は神に感謝し、自分に降り掛かったこの「幸運」を一人で祝った
しかし喜びは絶望と隣り合わせであることを
知らぬはずもなかった

絶望とは、その文字の語る内容であった
彼はそれをどうしても人に語ることができなかった
語りたい誘惑に駆られた
酔った勢いでそれを話したこともあった
面白がる者は二度とそれ以上彼の言葉を聞くことはなかった
蒼ざめた者は二度と彼の前に現れることはなかった
だが、現実は、ほとんどの者がそれを真実であると実感せず
自分の問題として耳を傾けることがなかったのである

運良く彼の言葉に耳を傾ける者がいれば、
その「作り話」を一体どうやって着想したのか
ということにだけに興味を示した
そして敵意さえ抱いたのだった

彼の男への批判は呵責のないものだった
男の話す言葉に根拠を求めたのである
根拠は彼の解き明かした粘土板の文字にほかならない
だがそれを読めるものはこの世に彼ひとりしかいない
しかもそれは存在しないとされたものに刻まれたものだったのだ

つまり、それは取りも直さず
彼が生涯をかけて解き明かしたことを
誰も取り合わなかったということなのだ
だれも耳を貸さず、耳を貸したとて、最後まで
その根気のいる証明に付き合えるほどの時間も忍耐も
人は持っていなかったのだ
驚き呆れる者たちも
何事もなかったかのように自分の日常へと戻って行ったのだった

証明が第一の問題であった
そして
解き明かした内容そのものの途方もなさ
それが第二の、そして最大の障害なのだ
この障壁をどうやって乗り越えるのか

誰にも信じてもらえないものは事実と言えるのか
それがいかに明らかな事実であり、証明が可能であっても
世界で、彼一人しか知らないのだぞ
だが、独りしか知らないものは真実ではないのか

彼がそれを解くまで、それは解き明かしうるものとさえ思われていなかった
だが粘土板は確かに地中に埋まっていたし
それは発掘された
それだけではない
それを読む者さえここにいるではないか


そうだ
確かにこれを石に刻んだ者がかつてこの地層の時代を歩いていた
そして、この者が視た事実を誰かに伝えようとした
それも確かだ

しかし、粘土板が語るように
かつてそれを刻んだ者さえ、当時それを信じてもらえなかったのだ
粘土板自体がそうかたるように
あたかも、男が今、それを信じてもらえないように

男の心は初めて彼を選んだ神を憎んだ

だが男は立ち直った
粘土板の文字の語る言葉をあまねくこの世に伝えるための
根気のいる「証明」を書き記すことに決めた
それは彼が解き明かすのに掛けたのと同じくらいの時間と根気を要求する作業だった
それは全く無関係に思えるふたつの事実を一足飛びにつなぐことの出来る
想像力と洞察というものの連鎖であった
その直感によってつなげられた内容をしっかりと、緊密に
つなぎ目がどこにあるか分からないほどの論理の連鎖で
再びそれらをつなぎ合わせるという作業
それは男に極度の疲労を強いるものだった
だが、それは膨大なページを有する7巻の本となった
そしてついにそれを世に問う日がやって来たのだ

すっかり髪の白くなった彼は、一度は神を呪ったことを詫び
神に感謝し、自分に降り掛かったこの「幸運」を一人で祝った

だが、それが完成したとき、
世界はすでに男が粘土板を発見した時と異なる
新たな時代局面に入っていたことを
彼は、知らなかった
それだけ彼はこの本の完成にのみ没頭していたのだ
その粘土板が語った内容のいくつかは
恐るべきことに
すでにこの男の住む世界において
実現し始めていたのだった

そしてそれらの成就がわれわれに何をもたらすのかという
粘土板の告げる最後の言葉さえ
もはやこの世では珍しいものではなくなっていたのだ
幼い子供までが、その言葉を口にしていた
人々はもうそれを薄々とだが、身近に感じ始めていたのだ

男がその本の内容の要約をかいつまんで説明したとき
どの編集者もどの出版社も首を横に振った
その内容に興味を持たなかったわけではない
だがもはや「それ」を証明してもらう必要さえなかったのだ
なぜなら、その内容は、多かれ少なかれこの世を生きる人々が
了解していること、だが決して言葉にすべきでないあることと
瓜二つだったからだ
そしてその粘土板の語る言葉
そしてその膨大な証明の手続きを記した草稿
それは誰からも顧みられることはなかった
彼は遅すぎたのだった

男はその草稿と足の踏み場もないほどに
部屋を埋め尽くした文献と資料の堆積の中で
天井を見上げ神を呪った

財産も名誉も要らなかった
彼に必要だったのは彼の知った言葉に
耳を傾けて欲しかっただけなのだ
だが、男は遅すぎたのだった



曲がった腰を伸ばし
汚れた手の甲で額から汗を拭い
穴の底から照りつける太陽を見上げる
ぽっかりと空いた真っ青な穴の中心から
白い太陽が容赦なく照りつける
男は自分の掌にあるその小さなものを見つめた

それへの最後の別れを告げるために

そしてそれを厳重に縛った包みに入った彼の本の草稿とともに
元あった場所に、それを埋め戻したのだった

「希望」と一緒に



(この長い草稿を最後まで読まれた方には多謝である)
02:34:16 - entee - TrackBacks

2005-06-21

タルコフスキー「映画論」へのメモ

これも長い前文のようなものに外ならない。
(タルコフスキーの「映画論」へのメモ:Tarkov_supplement2.txt)

映画作家という人種は、一部の人々(あるいは思いのほか多くの人々)によって「映画という媒体でしか表現し得ない夢や題材を抱えた人達だ」と考えられている。

だが、そのような幻想は、特定の映像作品にとって正しい評価の妨げになる考え方だ。映像作品の登場は、映像という媒体が存在する以前の、遥か昔から存在している題材を、映像といういわば「総合媒体」を獲得した人間が、ようやく扱い始めたということにすぎない。そして当然のことながら映像ならではの「特殊な表現」が生まれたことは事実であって、しかも必然的なことではあっても、アンドレイ・タルコフスキーのような特定の映像芸術家が作品を通じて描こうとしたものが、「映像によってしか扱えない題材」だと考えるのは、<題材>そのものに肉薄できないわれわれの勝手な想像に過ぎないのである。もちろん、これはタルコフスキーの評価を貶めるつもりで表明する意見でも、鑑賞者各自に起こる経験そのものの真実を否定する言辞でもない。むしろそのまったく逆で、タルコフスキーこそ映像史に永久に残る映像作家であるということを、改めて言おうとしているのである。そして、それには確固とした理由があるということを。

実は、<題材>こそがタルコフスキーの作品を特別なものにしているというのが第一の真相である。そして、その意味では映像だけがそれほどに特別なものでもないのである。映像は、そもそもそれ以前に存在した文学や演劇など、あらゆる作品や表現行為が伝えて来たある<題材>に緊密につながりがある。そして、タルコフスキーのように、映像作家でいながら優れた脚本を書く人はおり、そもそも<脚本>(根本的なアイデア)がなければこれほどの傑作は創れないのである。そして脚本は、タルコフスキーの独自のものではなく、ある種時代を超えた「ユニヴァーサルな台本」というものをベースにしているのである。「キリスト教的」と言えば一面当たっているが、それは顕教(表)としてのキリスト教ではなくて、むしろ密教(裏)としてのキリスト教と関わりがあると言えば、その意味では正しい。だが、この密教に言及するならば、それはもちろんキリスト教だけの専売特許ではなくて、あらゆるまともな宗教が伝えようとしたこと、あるいは古代密儀としての宗教なのである。つまりそのようなユニヴァーサルな台本がまずある。

もちろん、タルコフスキーの才能の特殊性とは、その<題材>を扱えるだけの優れた脚本を起こす能力(<題材>を理解する能力)があったのみならず、それを映像作品として具現化する技術的なノウハウすら持っていたということなのである。

映像作家としてのタルコフスキーが、詩人の父からの影響を受けていたということは、極めて重要なことなのである。

「タルコフスキーの作った映像を意味に還元して読み解くという行為は本当の意味でエクリチュールとしての映画を観る事からは遠ざかっている」という意見がある。これはつまり、多くの映像作品の鑑賞者が作品から「一定の意味」を捉えることに抵抗を感じ、さらにそのような見方は映画の価値を狭めるものであると漠然と感じていることを意味しているのであろう。だが、こうした多くの人の賛同を呼びそうな主張の特徴とは、まさに扱われている<題材>そのもの、そしてその「意味」を知らないからこそ出てくる意見なのである。

扱われている<題材>の意味をとらえることが可能なら、それが映画の価値を狭めるどころか、映画の(いや、主題の)途方もなさに驚愕を覚えるはずなのであり、その驚愕でさえ、その主題世界への参入のほんの入り口に過ぎないことが分かろうものなのである。

そもそも<芸術>の名に値する諸作品は、課題を提起し、その課題を囲んで人々を結びつけるためにもある。だが、鑑賞者の数だけ理解や解釈があるという今日的な「鑑賞者の自由」とは、人を同じ問題のもとに集合させるという芸術のひとつの機能を過小に評価している証拠でもある。あれほどの苦労をしてタルコフスキーの伝えたかったことは、「見る人の数だけある」と考えていいはずがないのである。

「作品は鏡である」というその深遠なる意見に反映していることの真相は、はたして単なる鑑賞者が耽溺しがちな自己愛ではないと言い切れるのだろうか? ここで語られていることは、実は「解釈」論でさえない。それは、たったひとつのことである。タルコフスキーには伝えたい確固としたテーマ(<題材>)があったということ。そして、その伝達に寿命を縮めるほどの精魂を注いだということである(あたかも『ノスタルギア』におけるアンドレイのように)。そしてその「題材」はそのような超人的な努力を払い、人々に問題意識を喚起するだけの「価値」のあるものであった、ということである。

現実としては、哀しいことだがその意図した内容は、おそらくほとんど伝わってもいなければ、「理解したり、共有したりできるはずのないものだ」と多くの人が思い込んでいる。それが筆者には悲しい。こうしたあまねく共有される「寛大なる理解」、すなわち鑑賞者自身による「多義性への寛容」という現実への、ささやかな抵抗の試みなのである。そして映画(に限らず芸術一般)には「見る人の数だけの解釈と理解があってよい」と考え、それこそが「芸術の胆」であると考える「自由なる鑑賞者」からは、それを傲慢だと受け取られる危険性を孕んだ考えでもある。
23:39:00 - entee - TrackBacks