entee memo

2005-03-28

いかなる事故死も悲惨である

六本木ヒルズの回転ドアの事故原因究明のテレビドキュメンタリーを見る。
別にこの事故が重大じゃなかったと言いたいのではない。重大だ。それが一人でも生命を奪ったとすれば...。どのように、あの重量級の回転ドアが児童の頭を砕き、頸椎をへし折ったのかを、ダミーを使ってリアルに再現していた。それは正視するに痛々し過ぎるものであった。だが、それは、1日平均30人の命を公道で跳ね飛ばし骨を砕いているクルマによる人災を、なぜわれわれが当たり前のように「受け入れている」のか、というわれわれの想像力の欠如も浮き彫りにする(例えばだが)。どうして、回転ドアの事故原因を追求する「失敗学」は、クルマの「失敗」を追求しないのか? それは、もはや安全を問う必要もないくらい明らかだからか? それとも、自動車産業は、「回転ドア」産業よりも政治家を生活者を自分の側に取り込んでいるからか? 

われわれの生活をふと振り返って考えると、「事故原因」ということで言えば、自動車事故で死亡する人は、日本国内だけでも1年に10,000人を超える。10,000(いちまん)人である。母集合との人口比で考えなければナンセンスだとおっしゃるだろうが、イラクへ戦争に行ったアメリカ兵の方が、開戦から数えてもまだ死者は少ない。だが、この交通事故の死者の数をもって誰が大騒ぎしよう? 誰がこの死者の数をもって凶器たる自動車を禁止しようと言うのであろう。つまり、死者の数ではないのである。自動車による事故死に関しては、われわれその恩恵を受けている人たち全員が共犯であるが、回転ドアの必要をわれわれは自動車ほどに承認しない。言ってみれば、「常識」ってやつが回転ドアを有罪にし、「常識」ってやつがクルマを無罪にする。

われわれの住んでいる世界を支える常識ってやつは、こんな程度のものなのだ。断じて、便利は安全に優先される、という狂気の世界にわれわれは住んでいるのである。

人々の常識が「戦争の必要」に承認をすれば、「敵国」の領土に爆弾を雨霰と降り注いでも、それは免罪されるのであり、そうしたことに反対する一握りの人間たちを、「共犯関係だったはずだ」との無意識でもって、弾圧を加えるのである。

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2005-03-11

もっと強力で知的な武装を!(新旧の概念を超えて)

「そんな考え方は古い」という言い方で、ある種の思想なり嗜好なりを評価したり批判したりすることがある。われわれの言葉のやり取りの中で、「時代錯誤(アナクロ)だ」という言い方も、強烈な説得力として機能することが多い。しかし、ちょっと考えてみれば分かることだが、「古くて良い」ものや「古くて正しい」ものがこの世にはあるし、場合によっては「古いから良い」というような単純な例外もある以上、「古い」という理由だけで対象を否定して事足れりと考えるのは、実は片手落ちである。「新しくて悪しきもの」という物事もいくらでもあるのだ。

[ましてや「伝統」という大きな鍋に、伝統芸術やもろもろの伝統文化、そして伝統的 family valueやら、何でも一緒に入れて煮込んでしまってはならない。伝統芸術にはそれらが保持されてきたのには、それぞれ独特の理由があり、伝統的な芸術を受容できても伝統的な family value は肯定できないというスタンスはあり得るのだ。ただ、受け入れ可能な伝統芸能の価値を支持する者たちが、「伝統」的な国家観やfamily valueというものを、ひとつのパッケージにして十把一絡げに肯定するというやり方は、国家や社会を全体主義に持っていこうとする支配者にとっては、やり易い常套手段であろう。]

いずれにしても、「古いか新しいか」という論拠で価値判断をする安易なる陥穽を避けなければ、議論の場で一時的に優位に立つことは出来ても、論理的にまさっていることを示していることにはならないのである。断じて、超えるべきは新旧の概念なのである。

繰り返すが、「考えが古い」という言い方をしようが、「アナクロだ」と表現しようが、「時流に反している」と断じようが、その言い方自体をわれわれはおそれる必要もなければ、あるいはその逆に、われわれが「古くて悪いもの」を断じるときも、「古い」ということが論理正当性の決め手になっていないことも、よくよく自覚している必要がある。いずれ、「古き」を断じるその「新しい」思考法は、「より新しき」思考法の登場によって克服されてしまうだけなのである。新旧を超えられない思想は、いずれ破綻する運命にある。

われわれは「古い/新しい」を超えた普遍価値を根拠に論敵と闘う必要がある。「普遍価値」などと言うと、それだけで「古いものの代表格」のように思う諸氏もいらっしゃるかもしれないが、たとえば民主主義やヒューマニズムというのはフランスのような国においては、すでに「普遍価値」として広く肯定的に認知されているのである。もっと言えば、グローバルな自由主義経済やこれからいよいよ席巻するかに見える新自由主義というものは、そうした普遍価値から否定されることもできるのである。

たとえばわれわれは、古いか新しいかではなく、「なぜ民主主義が良いのか」という根本原理から語る準備ができていなければ反民主主義という反動がもはや反動としても認知されなくなり、やがて「新しい考え」となってしまった暁には「民主主義はもう古い」という乱暴なほどに単純な断定によって「相対化」されてしまうに違いない。

われわれの生きる時代は、こうした長い時を経て多くの犠牲を払って戦い獲ってきた、人間の目指すに値する「普遍価値」と信じられた価値観を手放す方向に向かっている、明らかに。つまり(思想の)自由や(法の)平等や福祉(目的とする経済活動)というすでに忘却されつつある価値観が、「人間がより人間らしく生きるために」という似非人間主義のスローガンによっても、容易に否定され得るのである。

「人間的」とか「人間らしく」という表現が出たが、これも大いなる課題である。どちらの側が人間的かということも、意見が真っ二つに分かれる。「自由から逃走する(隷属へ向かう)」側も、権威への服従や全体主義的・家父長的な「秩序ある」道徳観を「人間的」と表現するのであり、「自由や平等を獲得するために闘う」側も、ヒューマニティ確保のための戦いだと思っている。

この際、どちらが人間的かという議論もあまり実りの多いものではないかもしれない。早い話が、隷属からの逃走も隷属への逃走も、所詮人間の持っているキャラクターなのだと言ってしまえばきっとそうであろう。だが、私の考えは明白だ。人間は隷属状態が続けば自由を希求するのもであり、社会がいかに安定的に見える「秩序」状態であっても、支配層の経年変化に起因する腐敗によって、形式化され、多くの声なき人々に犠牲を強いるということ。そして、人間はそうした腐敗が起きたときに、それを更新する力や道(方策)を持っていなければならない、ということ。そして、いかなる人も、平等な扱いをされたいという本能的な希求を持っているということ、そして、助け合う心を持ちうる、ということである。隷属がわれわれの社会が向かっている方向であれば、それにブレーキをかけようと<抵抗>することが、断然人間に見られる普遍的傾向なのであり、真のヒューマニズムと呼ばれるにふさわしいものである。

20:40:00 - entee - TrackBacks

2005-03-10

美輪明宏の何を「観る」べきか - NHK教育の『人間講座』

最初はなんて髪だろう、これが<美>を語る人のスタイルだろうか、そう思った。あの、真っ黄色に染めた長髪。しかし違うのだ。 あの髪の色はハレーションで飛ばして<観る>べきもので、われわれの「目で見る」ためのようであって、実は見てはいけない色なのだ。

それは、ある物体の実体のみに目を奪われると、その周縁の方こそが「絵を作っている」事実に気がつかない、だがあることがきっかけで電撃的にそれに気がつくことのある「ルビンの杯」みたいなことなのだ。

髪を光で完全に飛ばしてしまうと、残るのは顔だけだ。そして、顔を残すためにそのような突拍子もない色の髪にしている訳だ。だが主張している主体は、美輪氏の髪ではなくてあくまでも顔だ。 色に目を奪われると見えなくなる。そして、あの顔が表しているものは、純粋な人間の顔であって、表しているものはわれわれに知る男のようなものでも女のようなものでもない。 それは誇りを持って抵抗する人間の顔だ。
いや、敢えて言おう。男かもしれない。いやいや、やはりそれはナンセンスだ。だが、そこで男か女かということを問うてしまうわれわれのコモンセンス自体がここでは逆に問われる。その<男>が、<女>の様な格好をし、あの顔を通してテレビカメラの前でしゃべっていることは、あらゆる暴力を否定して生に資する美の力を賛美してやまない、美の追求者であり、それをプレゼントするための、いわば「標識」である美輪氏の顔なのだ。

だから、あの姿を日常的なわれわれの目で見て美しいかどうかを語っても意味がない。あくまでもわれわれが見つめるべきは、そのライオンの鬣(たてがみ)のように燃える黄金色の中心に輝いている<顔>の方なのだ。

それにしても、美輪氏は真の語り部だ。歌は役者によってもたらされる。そして声は、どこか高いところから響いてきて地面さえ轟かせるような深さを持っている。
23:28:15 - entee - TrackBacks

2005-03-03

ソメイヨシノはなぜ特別なのか(entee流補説)

現在各方面で大活躍中の「現実庭師」の畏友I氏が「地上の星、天上の桜」というタイトルでblogを書いている。最初、記事タイトル自体にはあまり注意を払わなかったが、ふとその意味を考えてみると、あれっと立ち止まらざるを得ぬところがあった。「地上の星」というのは、おそらくこのところ有名になったある歌を意識しただけかもしれない。が、「地上の星」に「天上の桜」を対置させているところが特に良いのだ。「桜」≒「星」と考えるメンタリティというのは、実はそんなに新しいものではなくて、五芒星を大胆にあしらった合州国の星条旗を初めて見た江戸時代人達がそれを最初「花条旗」と呼んだらしいところからも伺える。これは最近I氏の「趣味」に関心を持ってA新聞で寸評を書いている偉大なる博物学者A氏がどこかで書いていたことだと記憶する(なぜ星が5つの角を持つ「五芒星」になったのか、なんてことはここでは深入りすまい)。つまり、当時の日本人はそれを「星」であると読む決まりを知らずにも、白い星々を五弁の花びらの花と見た訳だ。だが、重要なのはそれを星と気付かなかったという点ではなく、「5」という数性にはきちんと着目していたという点にこそある。つまり、その五芒星は星であるということを一気にすっ飛ばして、より重要かつ本質的な「性質」だけをきちんと「異境人」たちにコミュニケートした、と言うことができるのである。

さて、さらに興味深いのはその日本が合州国と(どんな手続きを経たにせよ)国交を持ったあとに、日本の権力者がやったことである。私がまだ読んでいない「桜が創った『日本』- ソメイヨシノ 起源への旅 -」でも言及されていることかもしれないが、日本が米国に「ソメイヨシノ」を贈ったという逸話である。今では春になるとポトマック川河岸で満開になって、観光客たちをはじめ、政界を含む権力に近い人々をも喜ばせているワシントンDCのサクラであるが、明治時代に「日米親善の徴」として贈られたものであることを知る人も少なくないであろう。

だが、この五弁の花、しかも満開になったらすぐに潔く一気に散ってしまうというその「無常の徴」を米国に贈り物として献上し、ホワイトハウスからほど近い場所に植えさせ、しかもかの地の人々が愛でるようにした、というのは、実になんとも心憎い計らいだったと思えるのである。隠しながら「情」を伝えるという万葉の時代からのヤマト人の伝統的マナーは、当時も生きていた訳である。まさに「地上の星、天上の花(桜)」である。

23:39:00 - entee - TrackBacks